中国伝統文化百景(9)

中国文明の開拓者―三皇五帝

2016/01/13 07:00

 盤古の天地開闢と女媧の人間造りが行われた後、人類の文明が芽生え、「三皇五帝」による文明文化の創造活動によって、人類文明が次第に形成され、繁栄するようになった。

 史学界では一般的に、『史記』『竹書紀年』などの史書に記された最初の王朝である夏王朝を中国歴史の源とし、それ以前の文明に関しては、それらの存在や実態を裏付ける証拠が不足しているため、たいてい伝説上のもの、神話上の時代としている。

 盤古の天地開闢や女媧の人間造りが行われた時期と、夏・商・周の間にある、いわゆる神話伝説の時代に登場していたのが「三皇五帝」である。すなわち、「三皇五帝」は夏が誕生する以前にいたとされる、伝説上の8人の帝王のことである。「三皇」は神であり、「五帝」は聖人である。『周礼』春官・外史に「三皇五帝の書を掌る」とあるように、中国の古書では歴史を述べる際に「三皇五帝」がよく言及されている。

 「三皇」に関しては、『尚書』大伝では燧人(すいじん)、伏羲(ふぎ)、神農(しんのう)を指し、『風俗通引』『白虎通義』『古史考』などの書籍にも同様の説が記されている。そして、後に誕生した道教文化においても前記の三氏を「三皇」としている。『史記』秦始皇本紀には天皇、地皇、泰皇を「三皇」とし、『太平御覧』に引く『春秋緯』でも天皇、地皇、人皇を「三皇」としている。しかし、下記「古書における代表的な「三皇」の構成」に示すように、古書には女媧や黄帝も「三皇」とされるなど、「三皇」の定義やその該当者については諸説あり、必ずしも一定していない。

  古書における代表的な「三皇」の構成

  ①伏羲、燧人、神農(『尚書』大伝)

  ②伏羲、女娲、神農(『史記』三皇本紀)

  ③伏羲、祝融、神農(『白虎通義』)

  ④伏羲、神農、共工(『通鑑外紀』)

  ⑤伏羲、神農、黄帝(『尚書』序)

 現存する資料では、「五帝」が出現する前にまず「三皇」が現れ、人類に文明をもたらした文化の英雄あるいは天上の文化を人に伝えた文明の伝播者として尊ばれている。そして、前漢末から隆盛した神秘主義的な讖緯(しんい)思想によって、「三皇」は半獣半神の姿をした神として描かれる場合も少なくない。「五帝」に比べ、「三皇」は神秘的色彩を帯びた存在である。

 「五帝」の該当者についても、下記「古書における代表的な「五帝」の構成」に示すように、「三皇」と同様にさまざまな説があり、その構成についても相矛盾するものも少なくない。一般的に、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜の「五帝」説がもっとも代表的なものである。

  古書における代表的な「五帝」の構成

  ①黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜(『大戴礼記』)

  ②庖牺、神農、皇帝、堯、舜(『戦国策』)

  ③太昊、炎帝、黄帝、少昊、顓頊(『呂氏春秋』)

  ④黄帝、少昊、顓頊、帝嚳、堯(『資治通鑑外紀』)

  ⑤少昊、顓頊、帝嚳、堯、舜(『尚書』序)

 このほか、五方の天神を合わせて「五帝」とする説もある。たとえば、後漢の王逸注『楚辞』惜誦においては、「五帝」を五方の神とし、すなわち東方の太昊、南方の炎帝、西方の少皞(少昊)、北方の顓頊、中央の黄帝のことを指している。

 古書の記述からみれば、「三皇五帝」に関する伝説が代々広く伝承され、戦国時代になって書籍に記載されるようになった。

 皇の原義は、大、美という意味があり、そもそも名詞ではなく形容詞として使われていた。戦国末になって、上帝の帝が人間の主として呼ばれるようになったため、この皇をもって上帝を称するようにかわった。たとえば、『楚辞』にある「西皇」、「東皇」、「上皇」などの呼称がそのたぐいである。このほか、「天皇」、「地皇」、「人皇」(泰皇ともいう)という「三皇」の呼称もある。『史記』秦始皇本紀では、秦始皇帝は「皇」と「帝」号を組み合わせて皇帝としたと伝えられている。唐の司馬貞『史記索隠』では「三皇」を言及し、彼が補った『史記』三皇本紀では伏羲、女媧、神農を「三皇」としていると同時に、また「天皇」、「地皇」、「人皇」も合わせて記されている。

 帝は本来、天帝を指す。古書から見れば、孟子の時代には「五帝」という言い方はなく、『荀子』議兵篇の中で堯、舜、禹、湯を「四帝」とした。『管子』、『荘子』にはしばしば「三皇五帝」の呼称が見られるが、具体的な該当者は明示されていない。西周から春秋戦国時代までの伝説や歴史を記述した文献から、多種多様な帝が見られ、後世に種々雑多な帝ができたが、いずれもこの時代の文献からその原型を求めることができる。

 司馬遷の『史記』に「三皇」に関する記述が欠如しているとし、唐の司馬貞は「三皇本紀」を補い、伏羲、女媧、神農など上古時代の帝王に関する内容を補筆した。ただし、それ以降の『史記』には、司馬貞著の三皇本紀の信憑性が低いとして補筆部分を入れない版本が多い。

 司馬貞『史記』三皇本紀に、「天地が初めて成立したとき、「天皇氏」があって、王位についたのは十二人である。みな無欲恬淡でなんら作為するところはなかったが、その徳のために民俗はおのずから化せられた。木徳の王であり、木星が寅の方位にある歳を紀元とした。兄弟十二人で、在位はおのおの一万八千年であった。」とある。

 十二人の「天皇」については、十二支の暦を象徴しているとも思われる。そして、五行の相生配列は木徳→火徳→土徳→金徳→水徳であるが、木徳はその最初にあることから、最初の王の徳とされたものと思われる。

 『史記』三皇本紀(野口定男ら訳:『史記』三皇本紀。中国古典文学大系10、平凡社、昭和50年12月初版第9刷)に記述されている「地皇」は兄弟十一人、火徳の王であった。在位はおのおの一万八千年であった。「人皇」は九人であり、兄弟九人は中国を九州にわけて、おのおのその長となった。およそ百五十世、在位は合わせて四万五千六百年であった。

 ただし、この『史記』三皇本紀は、司馬遷が著したものではなく、唐の司馬貞がその補いとして書いたものである。司馬貞にとっては、補完が必須不可欠であった。

 「天皇」「地皇」「人皇」の「三皇」はまた、天、地、人という三才を表すという説もある。しかし、三才説があってから「三皇」の呼び名に合わせて命名されたというより、後世にできた三才説はこの「三皇」に因んで呼ばれるようになったか、またはそれの同一系統のものであると考えられる。

                                                          (文・孫樹林)

 

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