中国伝統文化百景(25)

孔子と儒教――中国思想の一源流の形成

孔子

孔子(前551~前479)は、儒教の創始者である。生年は一説に前552年といわれ、名は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。魯の国(山東省曲阜)に生まれた。

先祖は殷の王族の子孫である。幼少のころに両親をうしなった。「吾、十有五にして学に志す」(『論語』為政篇)に示されるように、孔子は年少の頃より勉学に励み、貧賤のうちに成長して魯の官吏となり、大司寇(だいしこう)という地位にまでのぼりつめた。

孔子には特定の師はなく、礼・楽・射・御・書・数はもとより故実や古典などに関し、その道の先達なら誰彼となく、教えを請うた勉強好きな者である。

しかし、国内外の有力者から認められず、そして彼らの妨害によって、孔子の主張はなかなか聞き入れられなかった。そのために、孔子は職を辞して国外に去った。時に年56歳であった。

その後、門人を何人か引き連れて諸国を遊説した。孔子にすれば、春秋時代は実力主義がはなはだ横行し、重んじるべき身分制秩序や仁徳や礼楽が崩壊しつつあった。そこで、孔子は、周初への復古を理想として身分制秩序の再編や仁道の政治を掲げた。しかし、遊説の挫折によって政治への希望をうしない、14年後(前482)に故郷の魯国にもどり、教育に専念することにした。

魯国の有力者の弟子をはじめ、門人が相当多く、孔子が諸国を遊説していた頃からとくに門人が増えた。弟子は、前後を通じておよそ3000人、とくに優れたものが72人であり、そのうち特にすぐれた高弟は孔門十哲とよばれ、その才能ごとに四科に分けられている。徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学に子游・子夏である。その他の高弟に、『孝経』の作者である曾参(曾子)や孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子は、「述べて作らず」、すなわち昔からの伝承を受け伝えて、自分で創作しないとしつつも、倫理思想として説いた教説はきわめて多岐にわたり、その徳目も多い。一方、孔子はまた、わが道は一つのことで貫いている、という。つまりもろもろの教説は一貫するものがあり、それは<仁>というものである。この<仁>の意味について、古来多くの解釈があるが、親愛や慈愛の心を中心とするのがだいたいの傾向であったが、<忍>をもって仁の語原を説明した見解もある。

<礼>も孔子が重んじるものであり、<仁>の内面性に対し、人間の外面性が求められている。<礼>は本質的に伝統的、外面的、形式的なものではあるが、人間の内面性や倫理性つまり<仁>のひとつの反映でもあるので、重視すべきとされたのであろう。重要な政治思想として、孔子は三皇五帝の代から伝わってきた<徳治>、すなわち君主としては道徳的に卓越しなければならないと主張するが、これも<仁>の政治におけるひとつの反映であると考えられよう。

孔子思想の核心的なものとして、<仁><礼>のほか、<知><勇>もあり、それらは一体となって孔子の理想的な人間育成プロジェクトに総合的に作用するのである。

孔子の教説の目的は、君子たる自己完成、すぐれた品格をもつ人間の育成、そして倫理的に優れた社会の構築にある。

『史記』孔子世家によると、孔子は、晩年、易を愛好し、彖・繋・象・説・卦・文言の諸伝を整理した。易を熟読して、そのために、その竹簡をとじた韋(なめしがわ)の紐が三度切れた。孔子は、詩・書・礼・楽をもって教え、文(文を学ぶこと)・行(行ないを修めること)・忠(おのれを尽くすこと)・信(言葉に信実のあること)をもって教化した。孔子の人格は完全で、四つのことは絶無であった。すなわち、私意なく、かならずこうしようと期することなく、固執凝滞することなく、我がなかった。

司馬遷は『史記』孔子世家の章末に、孔子への感懐を述べ、孔子を「至聖というべきである」とした。

『史記』などの史書の他、孔子の思想や事跡を知る基本的な史料として、『論語』がもっとも重要であり、その次は『春秋左氏伝』や『礼記』などがあげられよう。

先王・先哲たちの思想を受け継ぐこと、道と徳を重んじること、学問や礼楽およびもろもろの徳目を体得することによって理想的な君子に成長し、そして他人や社会にその徳行をおよぼし、そして伝統の回復などは、孔子理想のもっとも重要な部分であろう。

孔子の思想は主に、孟子に継承され、前漢武帝の代の董仲舒から大なる評価を受け、漢の武帝は孔子の思想(儒教)を官学とした。以後、今日まで2000年にわたって、孔子の儒学は正統思想として、中国文化にきわめて深い影響を与え、中国文化の一つの礎を築いたのである。

儒教と儒学

孔子は、堯、舜、文武、周公などの先賢たちを聖人とし、彼らの思想や行為、仁政を学ぶべく、かれらが体現した正道を復興させようとした。

そのためには、自らを先王の継承者として先王の道を学習・体得し、弟子たちを教化しつつ、各国の支配層ならびに一般の人々に自分の学説を唱えた。そのため、彼の主張は、3000人といわれる弟子を中心に多くの信従者を得たが、その影響も名声も死ぬ前には必ずしも高くなかった。

孔子が死んだ後、弟子たちを中心とした継承者が孔子の思想を伝承し、自らその思想の実践を行った。継承者の中で、孟子と荀子の学説がもっとも注目される。孟子は人間の性善説をとなえ、最高の徳目である<仁>に<義>を加えた。一方、荀子は人間の性悪説をとなえ、礼治の思想を主張した。

魏晋後、佛教との比較において、孔子の一門は、はじめて儒教とよばれたが、厳密にいえば、宗教というよりも、儒学と称すべき思想的・倫理的な信仰・実践の体系であると定義したい。

漢の武帝のとき、陰陽五行思想を重んじ、天人相関の説を説いた董仲舒は諸学がある中で儒学を正統の学問とし、五経博士の設置を献策した。建元5年(前136年)、武帝はその献言を受け入れ、五経博士を設けた。そして、前漢末から後漢にかけて、統治の正当性を儒学の天命思想に仰ぐようになり、儒家の経書が国家の公認により教授され、儒教が官学化した。朝廷に仕える儒家官僚が多く、丞相など重臣の地位を占めるようになる。この儒学と国家の一体化はまた、科挙制度などの官僚制度の確立を促し、その影響が清末までつづいた。

両晋、南北朝、唐代において、儒学は佛教と道教とともに三教とよばれ、一時的にその思想的地位が低下していたが、宋代以降に朱子学によって宋明理学体系ができ、儒学の更なる発展を促した。宗明理学は「修己治人」、「修身、斉家、治国、平天下」を重んじる。

儒教は、仁、義、礼、智、信を徳性の「五常」とし、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信という道徳法則を「五倫」とする儒教倫理説の根本的教義である。

儒教は、四書(『大学』『論語』『孟子』『中庸』)五経(『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』)を経典とする。また、『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物は、「六経」(六芸)ともされる。

孔子は、世界三聖(あとの二聖は、釈迦とキリスト)とされ、儒教も中国をはじめ東南アジアないし世界の文化思想にきわめて大きな影響を与えてきた。

(文・孫樹林)