中国伝統文化百景(26)

孟子と荀子――儒学の発展と変容

2016/05/17 07:00

孟子

 孟子(前372年?~前289年)は戦国時代の魯(山東省)の人であり、思想家で孔子に次いで亞聖と称される儒教の重要な人物である。そのため、儒教はまた「孔孟の教え」とも呼ばれる。

 学業を孔子の孫の門人から受け、学の道に通じてから、遊歴して斉の宣王につかえた。宣王に重用されなかったため、魏におもむいた。魏の恵王が秦や斉にうばわれた土地を取り戻す方策を尋ねられると、孟子は謀略のかわりに、「仁者無敵」の道を説いた。すなわち国土は小さくても、仁政を行えば、何者にも負けないということである。彼の考えは現実離れした理想論で現時の実情とはへだたりがあるとして、魏の恵王も、彼の主張を採用しなかった。

 当時、秦は商鞅をもちいて富国強兵に力をそそぎ、楚・魏は呉起をもちいて敵国を弱め、斉の威王・宣王は孫臏らをもちいて兵力を強め、天下は強兵、攻伐を賢としていた。そうした状勢のもとで、孟子は堯や舜など先哲の徳を主張するので、どこへ行っても重視し採用されなかったのである。

 そこで、孟子は引退して弟子の万章たちとともに『詩経』『書経』を整理し、孔子の意のあるところを述べたという。『史記』孟子荀卿列伝によれば、孟子は『孟子』七篇をつくったというが、唐の韓愈は孟軻の没後、門人たちが孟子の言を記したという(『韓昌黎文集』)。現在、後者が定説化している。

 孟子のもっとも重要な思想は性善説である。孟子は、人間は生まれながらにして善であると考えた。当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もないと主張し、他の者は性が善である人もいれば不善である人もいると説いた。これらに対し、孟子は「人の性の善なるは猶水の下(した)きに就くがごとし」(『孟子』告子章句上)とし、人間の性善説を説いた。そして、人の善なる性が外物によって失われてしまうため、性が善でありながら人は時として不善のことを行うのであると述べている。

 人間は生まれながらにして道徳心の四端(四つの端緒)という徳性が備わっていると考え、惻隠(他者を見ていたたまれなく思う心)、羞悪(不正や悪を憎む心)、辞譲(譲ってへりくだる心)、是非(是と非を判断する能力)というものである。この四端を拡充することによって、仁・義・礼・智という人間の徳に到達すると述べている。

 戦乱の時代において、孟子は、徳によって仁政を行うか否かによって、古今の君主を王者と覇者とに分け、政道を王道と覇道に弁別し、徳と道にしたがう王者と王道を主張する。孟子はまた、伝統的な天命観を奉じ人間に対する天命の支配を信じていた。

 唐の韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を継承したと評することによって、孟子の地位がしだいに上がっていった。北宋時代に、『孟子』は科挙の試験科目の中に入れられ、のちに儒家の経典にも昇格し、「四書」の一つに位置づけられた。元代の至順元年(1330年)、孟子は「亜聖公」に封じられ、以後孔子に次ぐ「亜聖」と仰がれるようになった。

荀子

 荀子(前313年?~前238年?)は、戦国末期の思想家で、儒学者。趙の人。姓は荀、名は況であり、尊称して荀卿と呼ばれるが、漢代には孫卿とも呼ばれた。

 五十歳になって、はじめて斉に遊学し、祭酒(官名、列大夫の長)になった。讒言をうけたため、斉を去り楚におもむいた。楚の宰相春申君の推薦により蘭陵の令になった、春申君の死とともに職を免ぜられた。辞任後も蘭陵に留まった。

 『史記』によれば、荀子は混濁した世の中にあり、亡国や乱君が相次ぎ、儒者の異変などを憎み、儒家・墨家・道家の実情と興廃を推論し、それを数万字の著書に整理して死んだ。

 前漢末に、劉向は荀子および後学の著作群を整理し、『孫卿新書』32篇12巻にまとめた。唐の楊倞はこれを校訂して注釈を加え、書名を『荀子』と改めた。現存のものはすべて楊倞注本の系統である。

 荀子は、先秦の諸々の思想を集約し、儒家思想に立ちつつ、あらため思想を述べた。中国伝統文化において、天という概念は上古時代から伝わってきたもので、きわめて重要なものである。荀子は従来の天人相関の思想を否認し、その天をただ純粋な自然とし、人間も自然の一環であるとし、なお、自然に対する人間の主体性や能動性に着目した。

 孟子の性善説に対し、荀子は人間の性を「悪」すなわち利己的存在であると主張する。孟子も、人間は学問や礼儀を後天的に身につけることによって善に向かうことができるが、その本性は欲望的な存在であると述べた。そのため、孟子の人間中心主義に終始したのに対し、荀子は君主が社会を統べる制度を制定して型を作らなければ、人間はよくなれないとし、制度・法治など外在的環境や要素を重視する視点に立った。

 荀子の影響を受けて、弟子李斯は荀子の画いた国家体制を試み、秦帝国の皇帝を頂点とする官僚制度として実現した。漢以降の歴代王朝でもそのような国家体制を執り、儒学を学んで修身する統治者論理を官僚の行うべきものとするようになった。

(文・孫樹林)

関連記事
注目記事
^