THE EPOCH TIMES
中国伝統文化百景

道を失って堕落した殷からの誡め

2018年01月20日 17時00分

紂王の無道による殷の堕落

 商(殷)(前1600頃~1046年)は天乙(湯)から帝辛(紂王)までの30代を経た。殷の後期に入ると、次第に先王の道から逸れてしまい、紂王の代にいたると、道を完全に失い、堕落しきった。

 帝甲は淫乱であった。帝武乙になると、無道の状況がより深刻になった。彼は人形をつくってこれを天神とよび、これと博(すごろく)をすることにして、人に天神の代行をさせた。そして天神が勝たないと侮辱した。また、革の嚢(ふくろ)をつくって血をもり、仰いでこれを射て、「天を射る」といって遊んだ。しかし、この武乙が黄河と渭水の間で狩猟したとき、にわかに落雷があり、彼は雷に打たれて死んだ。

 その子の帝太丁が立った。帝太丁が崩じて、その子の帝乙が立った。帝乙が立ってから、殷はますます衰えた。帝乙が崩じて、少子の辛が立った。これが帝辛であり、人々が紂とよんだ暴君である。

 紂は弁舌さわやかで動作もすばしこく、見聞きして物事の本質をつかむことに敏く、才能も腕力も人より優れ、手で猛獣を打ち倒すこともできるほどの勇者であった。しかし、紂は天下の名声を得ていると思い込み、非常に傲慢だった。

 紂は酒を好み、淫楽に耽り、妲己を寵愛した。妲己の言うことには何でも従い、音楽師の涓に命じて、淫らな歌謡「北里の舞」や「靡々の楽」などを作らせ、娯楽に耽った。

 紂は賦税を重くして、鹿台(ろくだい)に金銭をみたし、鉅橋という倉に穀物をみたし、沙丘という離宮の苑や台をさらに拡張して、野獣や飛鳥を大々的にとらえてその中に放った。鬼神を侮り、群臣官女をあつめて沙丘で遊びに耽った。酒で池をみたし、池の周囲の木々に食肉をかけ、男女を裸にして鬼ごっこをさせ、夜を徹して酒宴を催した。

 紂の暴政と乱倫に対し、民は怨み、諸侯のうちには背くものも現れた。すると、紂は刑罰を重くし、「炮烙の法」などをつくった。

 殷には、三公とよばれる主要な大臣の西伯昌、九侯、鄂侯がおり、紂に仕えた。九侯には美しい娘があり、これを紂の室にいれていた。九侯の娘は淫楽を好まなかったため、紂は怒ってこれを殺した。更に、九侯を肉醤(ししびしお、処刑後の死体を塩漬けにする)にした。鄂侯は、言葉を尽くして紂の非を諫めていたが、紂は鄂侯をも干し肉にしてしまった。このことを聞いて、西伯昌はひそかに嘆息した。しかし、このことは密告され、西伯昌は紂に幽囚された。

 三公を廃した後、紂はへつらいがうまくて利益を好む費中、讒言してきずつけることがうまい悪来などを登用した。そのため、諸侯はますます殷と疎遠になった。

 西伯昌の臣たちが美女、珍奇な物品、名馬などを紂に献上すると、紂は西伯昌を釈放した。炮烙の刑を免ずるために、西伯昌は洛西の地を紂に献上した。西伯昌は帰国してから、ひそかに徳をおさめ、善政をおこなった。そのため、諸侯は多く紂に叛いて西伯に帰属した。西伯の威望がひましに大きくなり、紂は次第に権威を失っていった。

朝廷を乱す九尾狐の妲己

 紂王はなぜそれほど無道、淫蕩、暴戻になってしまったのか。諸因がある中で、妲己の誘惑や攪乱が最大の要因であるといわれている。妲己は紂王を惑わすだけではなく、殷の社会や朝廷を乱し、殷王朝を崩壊させたのである。

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