THE EPOCH TIMES

孟母三遷の教え

2018年01月28日 10時00分

 孟子の母親の姓は「仇」。父親の名は「孟激」といい、孟子が年少の頃に世を去った。孟母は「胎教」の重要性をよく知っていて、『韓詩外伝』の一節によると、「私はこの子を孕んでから、座席がきちんとしていなければ座らず、きれいに切っていないものは食べない。これこそが胎教である」と口にしていたという。

 実際、胎児は母親のお腹の中にいるときから一個の独立した生命体で、母親とよく意思疎通し、母親の喜怒哀楽を解するものだ。母親の心身がきちんと整っており、心が穏やかであれば、自ずと胎児に良いものが伝わり、胎児の知恵と優良な品格を形成するのに、よい影響を与える。

 日常生活の中でも、孟母は息子の起居や暑さ寒さに気をつけただけでなく、言葉と行動で身をもって教え、その人格形成に努めた。孟母は、息子が良くない環境の影響を受けているのに気が付くと、よりよい学習環境を与えるために、あちこちに引っ越した。最後には、鄒(すう、現在の山東省鄒城市)の街中にある学び舎の付近に落ち着いた。家はボロボロであったが、付近にはいつも学生や知識人が往来し、彼らの高雅な雰囲気、落ち着いてゆったりとした風格、優雅な立ち居振る舞いが、付近の住民に目に見えない良い影響を与えていた。

 物心つき始めた子供たちは、いつも大きな木の下に集まり、学び舎の学生や知識人が行う拱手(きょうしゅ)の礼儀作法を真似ていた。その厳粛な有様を遠くから見ていた孟母は、大いに喜び、息子を安心して住まわせたという。これが歴史に名を留めた「孟母三遷」の美談だ。

 人間の基本的な人格は、6歳以前に形成される。6歳以後、活動範囲が広がるにつれて、おのずと周囲の環境の影響を受けるようになり、「朱に交われば、赤くなり、墨に交われば黒くなり、青に染まれば青くなり、黄色に染まれば黄色くなる」のだ。環境が児童の成長に多大な影響を及ぼすのである。

 昨今、社会の道徳が衰退するにつれて、人々の心は荒み、自己中心的になった。大人は、将来子供が人の上に立ち、損をしないようにと、「ずる賢く」なるよう教える。その結果、子供たちはますます我儘になっている。現代の人々は、事にあたって相手を考慮することがなく独りよがりで、互いに傷付け合う。

 そんな中、母親は自ら行動を起こし、身を修め品性を養い、言葉と行いで身をもって子供に教えなければならない。そうしてはじめて、子供たちは立派な道徳と品格を身につけることができ、社会全体が安定し、調和することになるのである。

 孟家がまだにぎやかな街中に住んでいた頃、東の隣人が豚を殺した。孟子は不可解に思い、母親に「隣の家が豚を殺したのはどうして?」と尋ねた。母親はその時、とても忙しかったので、口から出まかせに「食べさせてくれるのよ」と言った。すると、孟子が本当に豚を楽しみにして待っていたので、孟母は、子供との約束を破ってはならないと考え、切り詰めた生活費の中からなけなしの銭をはたき、肉を買って、子供に腹いっぱい食べさせた。

 孟母は実際の行為によって息子を教育し、「言ったら必ず行ない、行なったら必ず結果をもたらす」ことを示した。子供を有言実行の、信頼できる人物にするためには、母親は身をもって示さなければならないものである。

 或る日、孟子は学校をさぼって、長いこと外で遊んでいた。息子が帰宅すると、孟母は何も言わずはさみを取り上げ、仕立て上げた錦絹を両断した。孟子が驚いて立ちすくんでいると、孟母は、「あなたが学業を放り出したのは、私が絹織りを切断するのと同じことです!」と述べた。孟母は、「絹織りを断つ」ことを「学を捨てる」ことに譬えて警告し、一旦やり始めたことを途中で放り出さないよう厳粛に戒めた。

 このできごとは、孟子の幼少の心に深く焼きつき、鮮明な印象を残したという。彼は、ことをなすには強い意思が必要であり、一旦目標を見定めたら、外界の誘惑に負けてはならないということがわかった。これ以降、孟子は倦まずたゆまず、日夜、勉学に励んだ。

 孟母の息子に対する教育は隅々まで行き渡り、息子が結婚してからも、夫婦和合の道について指摘した。『烈女伝』の記載によると、孟の妻・由氏が寝室で裸のまま歩き回るのを見た孟子は、顔色を変えて怒った。由氏は夫があまりにもよそよそしいのを見て、姑にどうにかしてほしいと求めた。

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