『三国志演義』にちなんだ偉大な男・関羽の話

中国の歴史上、最も尊敬される人物の中には、あの有名な「関羽」が挙げられます。

関羽に対する崇拝は三国時代からすでに始まりました。当時、関羽が亡くなってから、魏、呉、蜀三国は共に彼に尊敬の意を表しました。孫権は関羽の首を曹操へ送り、曹操は諸侯の礼を持って彼の首を洛陽に葬りました。一方、孫権は諸侯の礼をもって彼の胴体を当陽に葬り、蜀漢は成都で彼の装束を埋葬する墓を作りました。そのため、民間の間では「関羽は洛陽を枕にして眠り、体は当陽に横たわり、魂は故郷に帰した」という言い伝えがあります。

歴史上、各王朝も関羽に多くの封号(ほうごう・授与する爵位であり称号)を贈りました。劉禅は彼に「壮缪侯」の諡号(しごう・貴人や高徳の人に、死後おくる名前。おくり名)を追贈し、北宋は彼に「忠恵公」と「勇武安王」として封じ、明は「聖帝君」、清は「関聖大帝」などの封号を贈りました。

朝廷は彼を尊敬しただけではなく、民間も彼を敬愛し、特に武術に長けた人々は彼にひれ伏して、敬意を表わしました。

多くの人は「中国の5000年の歴史をさておいて、単に三国時代だけでも、関羽の武術も知謀もいずれも最高峰とは言えないのに、どうして彼は人々に最も尊敬される人物の一人であったのか」という疑問を持っていました。

「関羽は本当の男の中の男だからだ」というのが、その答えではないでしょうか。

孟子は「立派な男」の基準として、「富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず」の三つを挙げました。歴史上、その中の一つか二つの基準に満たした人は少なくありませんが、しかし、三つの条件を全部揃えたのは「関羽」しかいなかったのではないでしょうか。

関羽は字(あざな)を雲長と言い、河東解良の人です。関羽は権勢を頼みに人を侮辱した郷里の豪族を殺したため、官吏を追われ5、6年の間放浪生活をしました。その後、朝廷が義士を招集すると聞いた彼は、応募しようとしたところ、「劉備」と「張飛」に出会いました。意気投合した3人は桃園にて義兄弟の縁を結び、「心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん、上は国家に報い、下は民を安んずる」と誓いを立てました。誓いを果たすため、劉、張、関の3人は親兄弟のように仲睦まじく、裸一貫から出発し、各地を転戦し、世の中の苦難を嘗め尽くしました。それは「貧賤も移す能わず」(注釈1)ということでした!

2人の兄嫁を守るため、同時に離散した兄弟を探す機会を伺うため、関羽は曹操のもとに身を寄せました。曹操は彼を重用し、前官礼遇を与え(退官後も在官時と同じ待遇を与えること)、数日ごとに大きな宴会や小さな席を設けたりして、多くのご褒美や美女も賜りました。関羽はこれらのことに少しも心を動かさず、美女に2人の兄嫁の世話をさせ、いただいた財宝を密かに隠し、曹操から授けられた錦の長衣を中に身につけ、劉備からもらった古い長衣をその上に羽織って、自らの義心(忠義の心)を表しました。彼は劉備の居場所を知った後、直ちに曹操からの様々な贈り物に封をして、そして、五つの関所を突破し、6人の将軍を斬り、兄貴分の劉備を尋ねて千里を走りました。関羽は袁紹の将軍・顔良、文丑を殺しました。しかし、劉備が袁紹のところにいると知り、彼は危険を恐れず、毅然として2人の兄嫁を守りながら貴兄分の劉備を尋ねました。これは「富貴も淫する能わず」(注釈2)ということでした!

董卓の将軍・華雄は同盟軍の数人の将軍も斬ったほどの強い男でした。各諸侯の将軍たちは誰もが華雄を恐れていた時、関羽は勇敢にも立ち向かい、見事に華雄を打ち取りました。襄城と樊城の戦いで、関羽は7軍を水没させ、曹操の武将・于禁を捕まえ、武将・庞德を斬り、その威名は中国全土を震撼させました。その後、関羽は東呉に奇襲され、呉と魏からの挟撃を受け、麦城に敗走しました。捕虜になった後も、関羽親子は従容(しょうよう・危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま)として死に臨み、最後まで男の気概を見せました。それは「威武も屈する能わず」(注釈3)ということでした!

三国のこの100年余りの歴史は主に「義」を演繹(えんえき・一つの事柄から他の事柄へ押しひろめて述べること)しました。人々は関羽にを言及すると、自然に「義理が高く、高空まで迫る」という言葉を思い出してしまうほどです。

もちろん、関羽には欠点もあり、傲慢さはその一つでした。そして、彼は傲慢さから敵を軽視し、荊州を失い、自らも捕らえられ、命を落としました。しかし、それらの欠点は人々の彼に対する尊敬の念に影響をしませんでした。反対に、人々は彼が「麦城に敗走する」との一節を読んだ時、思わず扼腕(やくわん・はがゆがったり、憤ったりして、自分の腕を握り締めること)して深いため息をつきます! 人々は彼を理解し、「完全無欠な人はいないのだ。彼の長所は欠点に勝るのだ」とかえって、彼に同情したのです。

長い歴史の中で、関羽は中国人の心の中に、ずっと生き生きと偉大な男として生き続けています。

注釈1:「貧賤も移す能(あた)わず」とは、どのような貧賤(ひんせん・貧乏で、身分が低いこと)の苦しみで責められようと志操(しそう・堅く守っている主義。動かぬ志)を変えさせることはできないということ。

注釈2:「富貴も淫(いん)する能わず」とは、どのような富貴(ふうき・富もあり地位や身分も高いこと)をもってしても心をまどわすことはできないこと。

注釈3:「威武も屈する能わず」とは、権力や暴力でおどされても屈服しないこと。

(明慧ネットより転載)