元外交官・陳用林氏:私はなぜ亡命したのか(前編)

2005年06月29日 17時47分
 【大紀元日本6月29日】駐シドニー中国領事館一等秘書・政治事務官の陳用林(チェン・ヨンリン)氏は5月末、領事館を離れ、オーストラリア政府に対して政治保護を求めた。自由アジア放送局の石山記者が、政治亡命の理由及び中国、オーストラリア、米国の三角外交関係について陳用林氏を独占インタビューした。

 記者:今回、中共を離脱する決心をした根本的な原因と理由は何でしょうか?

 陳氏:私は中国共産党に対する不満を世の人々に知らせるために、5月26日に中国駐シドニー領事館を離脱しました。私が過去に経験してきたあらゆることが、自分の良心を悩ませ、精神的な苦痛を感じてきました。その苦痛は1971年まで遡ります。文化大革命の時に清華大学の学生だった父は、地元の住民のために大字報(壁新聞)を制作しました。それが原因で父は逮捕され、ひどい殴打を受けて死亡しました。

 記者:駐オーストラリア・中国大使は、あなたの今回の行動は、中国へ戻らずにオーストラリアに在留したいからであると発表しましたが、これについてどう思いますか?

 陳氏:父の死後、私は中共体制の陰で長年、我慢して来ました。1989年に六・四(天安門事件)の流血沙汰を目撃し、私は父の死が中国の政治体制によってもたらされたことを確信しました。その時、既に政府からの重圧を感じていましたが、なすすべもなかったのです。中国は一党独裁の政権であり、中共政権に対して異見を持つことは、つまりひどい迫害を受けるということです。私が中国外交部で仕事をしているのは生活のためであって、心の中ではずっと中共に対してすでに嫌気がさしていました。

 後に私はフィジーへ派遣されましたが、中共政府がフィジーとうまく外交関係を保つために、経済的利益を与えるなどの、あらゆる手段を使っている事実知りました。

 フィジーの後、中共が民主運動家及び法輪功学習者達を監視するために、私はシドニーへ派遣され、彼らの活動を監視し、情報を国内へ提供する仕事に就きました。しかし皮肉なことに、私は1989年から国内で民主運動に参加し、支援していたのです。

 記者:1989年、あなたは学生でしたか?

 陳氏:私は外交学院の学生でした。

 記者:当時、デモ行進以外、他の活動にも参加しましたか?

 陳氏:卒業直前の時期、NBC放送局で実習を受け、撮影制作グループで翻訳とガイドを務めていました。私は仕事の合間に天安門へ出かけ、いろいろな活動に参加しました。ハンガー・ストライキを行ったときも、私は現場で手伝っていました。

 記者:6月3日の夜と4日の朝は、あなたはどこにいましたか?

 陳氏:6月3日の夜は仕事がなく、宿泊していたホテルは天安門に非常に近いこともあって、その夜、私は民主大学が天安門広場で開かれる創立大会に参加し、厳家其さんの演説を聞きました。中国は長い間、封建制度と君主制度でしたし、中共も独裁制度を行っています。中国は全く民主的な社会ではないのです。私は厳家其さんの演説に非常に感心しました。

 記者:当日の夜、天安門広場の調査が行われたとき、あなたはどこにいましたか?

 陳氏:私は夜11時30分までそこにいました。そのとき、地下鉄の入り口から突然、解放軍兵士が大勢出て来ましたので、驚きました。彼らの突入を防ぐように私は他の人達の手を強く組み、その場で待機しました。当時、私は怯えていて非常に緊張し、身の危険を感じましたが、それでも、しっかりと隣の人と手を組んでいました。私の頭は非常に混乱していました。暫く経って、解放軍兵士の行進が止まった時に、その場を離れてホテルへ戻りました。

 記者:解放軍兵士たちは長安街と天安門広場付近で銃を発射しました。銃撃を受けて死亡者が出たことを知ったとき、あなたはどう思いましたか?

 陳氏:私は民主大学の大会にいる時既に、遠くから銃声が聞こえていました。ホテルに戻ったときは既に夜中でした。私はそのまま真っすぐに屋上へ駆け込み、天安門の状況を見に行きました。何人かの同級生もそのとき戻って来ました。彼らは解放軍兵士の行進の様子を6巻に及ぶビデオテープに収録しました。我々は軍隊による血まみれの弾圧現場をビデオでひと通り見ました。王府井(北京市内の繁華街)付近で子供連れの女性が道路を渡ろうとした瞬間に、兵士に発砲され死亡した話を同級生から聞き、中共の非人道的なやり方に恐怖を覚えました。

 記者:六四事件であなたは共産党に対するはっきりとした認識を持つことになった、ということですか?

 陳氏:はい。私はその時に共産党の本性を百パーセント見極めました。非常に重苦しい気持ちでした。西側の民主主義国家へ行けたらいいな、とその時思いました。しかし、当時の私にはお金がなかったし、勇敢に立ち向かうタイプでもありませんでした。ですから、私は厳家其さんや方励之さんなどの民主運動家たちを非常に尊敬しています。私には彼らが持っているような勇気はなかったのです。

 ロボットのように仕事をこなす

 記者:あなたは何時オーストラリアに来られたのですか?

 陳氏:私は2001年4月にオーストラリアに着きました。

 記者:何故帰国直前になってから、中共を離脱したのですか?

 陳氏:私の主な仕事は民主運動家及び法輪功の活動を監視することです。私は法輪功に接してから、法輪功は非常に特殊な存在の信仰団体であることが分かりました。法輪功を監視することは、まさに中国には宗教信仰の自由がないことを現しています。私は最初、党が決定したことに関しては断固としてその任務を遂行し、法輪功を監視し、中共に対して報告していました。しかし、その後の任務は、法輪功について警察にクレームをつけたり、法輪功の活動を制限させるように警察に交渉したりするようなことでした。特に法輪功学習者がパスポートを更新する際、中央からの指示でパスポートを没収するような、非人道的なやり方などは私の良心に背くものでした。中国の国民であれば誰であっても、旅行ができるように身分証明書を発行すべきです。

 私はまるでロボットのように、中共から与えられた仕事をこなしていくのみでした。指示に従わなければ、会議で指名され批判され、圧力をかけられるのです。中共は法輪功の全ての活動に対して阻止しようとしています。例えば、政府や市議会が主催する活動に法輪功が参加できないようにするため、地元の政府官員に対して圧力をかけ、法輪功は中国政府に禁止されている邪教であることを盛んに宣伝するのです。よく考えれば本当に理不尽なことばかりですが、勝手に行動を起こすことは許されないのです。

 私自身、領事館を出る時も上司の許可が必要で、戻った時も上司に報告をしなければならず、まるで刑務所にいるようでした。

 記者:全ての職員が出入りを厳しくされていたのですか?それてもあなただけですか?

 陳氏:特に私が用心されていたのです。私は政治領事官員なので、外部の人と接する機会が多いからです。亡命声明を出してから、華人社会では私を知っている人が大勢いるそうですが、私は彼等に声を掛けるのも恐ろしく感じます。何故なら、彼等はそれぞれ目的があって、領事館と行き来しているからです。私はこう言う状況の下、殆ど友達が出来ません。

 法輪功学習者をブラックリストから削除

 陳氏:領事館は800人の法輪功学習者の名簿(ブラックリスト)を持っています。しかし、私はその名簿から大部分の氏名を削除しました。私の後任者が法輪功の任務を遂行する時、私が今までやって来たことがばれてしまうと思います。私は、再び領事館へ戻り仕事を続けるつもりはありません。私が携わった資料に問題が見つかったら、大変なことになるだろうと、恐怖を覚えました。私はこれを機会に、中国政府を離脱するしかないと思いました。良心のある中国人はきっと私のことを理解してくれると思いました。ですから、私は試すことにしたのです。

 記者:オーストラリアに千人の中国のスパイがいると発表されましたが、沢山の人がそれを信じ難い話だと言っています。少しご説明頂けますか?

 陳氏:私の知っている限りでは、特別勤務者と情報提供者の一部が、華人社会地区から募集されています。彼等の多くは中国とビジネスをしている者で、領事館は彼等を利用し、彼等も中国から利益を受けています。領事館が探したい人がいれば彼等はすぐに探し出してくれるのです。

 記者:法輪功または異見者を専業に監視するスパイはいますか?

 陳氏:専業スパイは実際、領事館に一人います。

 記者:法輪功の学習者が盗聴されている話、行動を監視されている話ですが、専門的にこれらの仕事をするスパイはいますか?

 陳氏:必ずいます。例えば、中国政府の重要官僚がオーストラリアを訪問することになると、国内から必ず安全部門の情報が送られてくるのです。その内容には民主運動家や法輪功、そのほかの異見者が、重要官僚の滞在期間中にどこで活動するか、などの詳細な情報が含まれます。彼等がどうのようにして、ここまで詳しい情報を手に入れることができたのか、不思議なくらいです。

 記者:あなたは法輪功以外、他の異議団体の監視などを担当したことはありますか?

 陳氏:私の任務は民主運動、法輪功、台湾独立、チベット独立、新疆独立に関わる人達の監視でした。
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