イエスはその復活を通して人々に何を伝えようとしているのか?

2006/04/17 12:14
 【大紀元日本4月17日】例年の復活祭がやってきた。厳格に言うと、これは記念すべき日ではないのだが。

 神の偉大さと人間の恥辱は、二つの全く異なる概念であるが、今日の人々はそれを同一視したがるようだ。

 イエスが復活したことは、彼が神であることを証明した偉大な現れだという人がいる。しかしイエスが復活しなかったら、彼は神でなくなるのだろうか?神は永遠に神のままだ。神の鑑定は人間による証明を必要としないし、人間はそれを証明することもできない。

 しかし人間は人間のままだ。人間は私心をもつ低能な存在で、もしイエスが復活しなかったら、どれほどの人がイエスが十字架に磔にされたことを「公正」な審判であったとみなしただろう。人間はこれほど、無知の中で生活している。

 逆に言うと、イエスの復活を見て、人々は神を死に至らしめた罪を懺悔せず、かえって実証した正しさを喜んでいた。彼が神だと実証されたのだ、ならば安心して我々の罪を背負ってもらい、彼の血を飲めば天国にいけるのだと。

 人間の霊性が自我の私心に阻まれている。実際のところ、人間はその羞恥を知らない私情をもって、神の道を開いていた。神には受難する必要性もないように、神は復活する必要はなかった。しかし人間はこのようにして、自分たちを救ってくれる神を受難の道に向かわせた。神の人間に対する慈悲は、恥辱を覆い隠すための目隠しにされたのだ。

 神は偉大で、慈悲深く、衆生を救い済度するために、低層の生命のために巨大な苦難を一身に背負った。しかし、いかなるときでも、神は高尚で高貴な存在であり、厳密に言えば、この種の生命が顕す慈悲は、人間とは全く関係がない。なぜなら人間がいようといまいと、神は永遠に慈悲深い高級生命体であるからだ。

 しかし人間はどのように演じていたのだろうか。人間は世に下った神を十字架に磔にし、全ての人間が、直接的にせよ間接的にせよ、罪を犯したのだ。イエスが十字架を背負い、処刑される道の途中で、誰一人として彼を止める者はいなかった。人間は心に忍びなかったのかもしれないが、やはり沈黙を選んだ。中には神の真偽を検証したいものもいた。

 そのため、イエスが十字架に向かうと同時に、人類も永遠に洗い落とすことのできない恥辱の柱に磔にされたのだ。

 イエスは復活した。しかしそれは神が奇跡を見せるためではなかった。なぜなら十字架に磔にされる前のイエスが神の姿を現せば、もはや誰もが彼に触れることができないからだ。

 神は受難して死ぬことを選んだ。彼は無知の人間のために苦難を一身に背負うことを決意したからだ。この苦難は人間の私欲から生まれ、そして神も死から復活したのも、人間に賛美されるためではなく、実証されるためでもなかった。神はその慈悲深い方法を通して人間の良知を呼び起こし、人間の霊性を喚起しょうとしたのだ。

 イエスは復活した。彼は神だ。しかし人間は神に何をしたのだろうか?人間は神を十字架に磔にした。これほどの大罪を犯したにも関わらず、人類の最も根本的な人間性に触れ、そして懺悔させることができなかった。人間が何をしたのかをとくと見てみよう。神は人間にこの事実を永遠に覚えさせ、代々に伝承し、常に警鐘を鳴らし、私欲のために神に対して罪を犯すことがないようにと警鐘を鳴らしてきた。特に神が再来する日々に。

 イエスは復活し、人間に告げた。神は再び戻ってくると。

 神は必ず戻ってくる。随時随所に。しかし人間は、復活祭を慣行の祭日とするのみで、何の懺悔の意識もなかった。人間は、再び過ちを犯すのだろうか?

 『新約聖書』の最終章、「ヨハネの黙示録」の中で大淫婦としてたとえられていた中共はこの世界を魔の世界に変えようとしている。まさに予言通りに、地上の王たちは彼女とみだらなことをし、商人たちも彼女の豪勢な贅沢によって富を築いた。各国政府と財団は各自の利益のため、中共という赤い龍の残虐な本質を顧みず、ただ暴利を貪ることしか知らなかった。

 悪霊は人間の私欲を利用し、再び人間が神を迫害するように、大勢の人々を犯罪者に変身させた。もし神が、人間の姿で再び人間界に下れば、2000年前に起きた神への迫害が再び演じられるかもしれないのだ。

 実はすべて、再び上演されている。しかも2000年前よりもっと惨烈に。人類の輪廻は最終段階に入り、幾たびも世の転変を経てきた。今日の人間の誰でも、もし神の言葉を真に理解し、信じれば、人類の最後の淘汰の中で良知と道義を保てれば、すなわち天国へのパスポートを手に入れることになる。

 『新約聖書』の「マタイによる福音書」第25章は、最後の審判の基準として答えている。イエスが飢えていたとき、のどが渇いていたとき、旅をしていたとき、裸のとき、病気のとき、そして牢にいたときとの隠喩を通して、最後の日々に邪悪が善良な人々を迫害することを伝えようとしていた。

 迫害に対抗する中で道義と良知を見せる人々(食べ物を施し、飲み物を差し出し、宿を貸し、服を貸し、見舞いに来る人々)が天国に行き、「天地創造の時から用意されていた国を受け継ぐ」ことができる。しかし口では信じていると強調し、実際迫害に対抗しようとしなかった人々は地獄に落とされるだろう。イエスが「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」といわれたように。

 人類は2000年前にイエスの受難と復活を見てから、信仰の重心を神に対する賛美に移したが、最後の基準から見れば、この最も道義と良知による支援を必要とされている「わたし」は「神」それ自体ではなく、イエスが答えの中で述べたように、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

 最も小さい者の一人とは誰のことだろうか。周りの信仰団体を見れば、中国の地下教会が迫害され、カトリック教会が迫害され、法輪功が臓器摘出による大量虐殺を受け、チベット、新疆の人々も迫害されている・・・。誰であろうと、中共が迫害の加害者であり、そして今日に見られる道義と良知の最も鮮明な表現とは中共に対して「否」と直言することであろう。『共産党についての九つの論評』を広め、「中共組織から脱退すること」を促進することが最も力強い証明である。全人類が迫害に反対することが、すなわちすばらしい未来に進む人類の再生の道である。

 逆に、未だに沈黙を保ち、無感動な人々は、近い将来に、「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入る」であろう。もはや永遠に「復活」する機縁もないのであろう。

 付録:『新約聖書』「マタイによる福音書第25章」より:

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

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