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随筆:「皆」と私

 ある日、私は考えた。私はよく、「皆、そう言っています」と口にするけれど、「皆」とは一体、誰だろう。 

 「皆」は、たくさんいる。「皆」は近所の人かもしれないし、遠くに住んでいる人かもしれない。また、現在の知り合いではなく、過去に出会って既に音信不通となった人たちかもしれない。「皆」はいつでも私の周りに存在し、どんな時も私に影響を与えてくる。

 「皆がそう言っていますよ」というセリフ、私は一体いつから頻繁に使うようになったのだろうか。実はこのセリフ、すごく便利なのだ。相手と議論する前に、こう言っておけば私は負けることがない。もし私の主張が間違っていれば、責任を「皆」に押し付けることができるし、私が正しければ「皆」の側に立って、勝ち組みの顔をする。

 それ以来、何事をするにも、まず「皆」の顔色を伺うようになった。「皆」が何かをするようになれば、私もそれに従う。「皆」が何かを言えば、私もそれを言う。そうしておけば、「あの人、間違っている」と「皆」に言われなくてもすむからだ。

 徐々に、「私」が無くなって、「皆」が私を支配するようになった。既に、「皆」と「私」の考えの区別もつかなくなった。もっと悪いのは、私は何が正しくて、何が間違っているのか、良いと悪い、正義と邪悪、の判断がつかなくなってしまったことだ。なぜなら、私が判断する「基準」となるものが、すでに「皆」と混同してしまって、どちらが本当の自分かわからなくなったから。

 「皆」は私に浸透し、私が本来もっていたはずの「基準」がなくなった。私は「皆」に押し流され、制限されて、自分が言いたい事も言えなくなった。私は「皆」を騙しているのと同時に、「私」をも騙している。

 いつか、私の身体が不治の病に冒されて、すでに自分を守る必要がなくなったとき、または私が歳をとり、私の家族や友人や同僚など「皆」が亡くなったとき、その時初めて私は「皆」から解放されるのだろうか?

 その時、初めて私自身が自分に問いかけるだろう。「皆、いなくなった。皆の言う通りに生きて来たけど、この一生は一体何だったの?」と。

 「皆」の判断に従い、「皆」のために生きた人生は、空しかったとしても、それの責任を誰がとってくれるだろうか?「皆」はその責任をとってくれるだろうか?

 「私」は、「私」の判断で、自分のための道を切り開かなければならない。「皆」と「私」が違っても、もう構わない。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。そう、私には「道」がある。もう、「皆」には惑わされない。私は自分の信ずる道を歩む。

 
(正見ネットより)


 (06/04/15 10:44)  





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