【党文化の解体】第7章(4)

【大紀元日本5月22日】

2.伝統的な祝日を廃止、党が按配した「党の祝日」

伝統的な祝日の中では、年越しを中国共産党が「春節」と称した以外にも、党がこれを廃止し、「党の祝日」に取って代わられたものがあり、党文化が伝統文化の代わりに中国人の生活に影響を及ぼすようになった。

中国の伝統祝日はみな修煉、神、仏などと密接な関係を持っている。中国の比較的に重要な祝日は元旦以外にも、元宵節、清明節、端午の節句、お盆、中秋節、重陽節、冬至、浴仏節、七夕などがある。

清明上河図

元宵節は「正月十五日」であり、もともとは道教の「上元節」から由来して、天官大帝の誕生日だったそうだ。漢明帝・劉荘は仏法を信じて尊んだため、仏法が世間を照らす象徴として、この日に寺院と民間で灯籠を灯すよう命じた。それ以来、元宵節は「灯籠節」となった。

清明節は先祖を祭って墓に参り掃除をする日である。端午の節句の起源というと、屈原を祭る説と竜神を崇拝する説がある。中秋節は周の時代に起源し、周天王が毎年の中秋に月を祭ったことから、後代に月見をする慣習を残した。重陽節は九月九日であり、中国の術数に由来し、「九」は一番高くて(道家では九層の天をいう)、一番広くて(九州の範囲)、一番深くて(九地の下)、永遠を象徴する数字で、この日に人々は菊を鑑賞して、しゅゆの実を頭にさして菊花酒を飲んだりする。冬至は帝王が天壇に行って天を祭る日である。

四月八日の浴仏節は釈迦牟尼の誕生日であり、また仏誕節、竜華会とも呼ばれる。この日に人々は寺院で参拝して斎戒をして、金銭の布施と動物の放生などをする。七月七日の七夕は彦星と織姫の伝説から由来する。七月十五日のお盆は亡くなった親族を祭る日で、仏教の中で目犍連尊者が釈迦牟尼の指示に従って、亡くなって餓鬼の世界に堕ちて飢渇に苦しむ母親を救うために、たらいを設けて僧に食事を供することから由来したそうだ。

以上の紹介を見ると、中国の祝日はみな祭祀、神話あるいは仏教、道教と関係があることが分かる。もしこれらの祝日が今日まで受け継がれれば、中国文化に神様と関連ある部分はきっと代々と伝わるに違いない、これは中国共産党に許されないことだ。中国人と中華伝統文化との間の伝承とつながりを断って、中国人に伝統文化の影響を受けさせないように、中国共産党は日常生活から民衆に対して洗脳を行う以外、正月の元旦を「春節」に改名して保留するほか、他の伝統祝日を全部廃止して共産党が定めた法定の休日を祝うことにした。伝統的な祝日と民俗は中国共産党に廃止されて、歴史の舞台から姿を消した。

統治を固めるために中国共産党はほかの「祝日」をも作り出した。これら「共産党の祝日」には、三月八日の「国際婦人デー」、「メーデー」、「五・四青年デー」、六月一日の「児童デー」、七月一日の「共産党設立記念日」、八月一日の「人民解放軍設立記念日」、十月一日の「国慶節」などがある。

祝日を祝う時、祝日の起源を思い出すことは当日のホットな話題となる。一方、中国共産党が決めた祝日はみな「階級闘争」と「革命」に関連ある。祝日を政治化する目的とは、国民を共産党のイデオロギーに服従させ、党の創立と発展を祝うことにある。これだけでなく、共産党の祝日にいつも「歌合戦」、「文芸公演」などが行われて、国民に共産党の功績を歌わせる。一つ指摘しなければならないのは、中国共産党の祝日によく「国際」の二文字がつけられて、全世界で盛大に祝うと思われるが、海外に行ったら、共産主義の数カ国以外の外国人はみな自国の伝統祝日を祝って、まったく「国際婦人デー」、「メーデー」、「児童デー」などを祝わないことがはじめて分かる。「労働者、女性、児童」が差別される階級なので、立ち上がって闘争するように共産党が恣意的に煽るが、実は、ほかでもなく共産主義の国でこそ「労働者、女性、児童」が圧迫を受けている。共産党が「国際婦人デー」、「メーデー」、「児童デー」を祝日に定めたのは、階級闘争の需要のためだけである。

「国際婦人デー」によく「三八紅旗手」の選出、女性を主役とする運動会、文芸公演、表彰会、友好会などが行われる。ここ数年来、「国際婦人デー」の祝い方の革新が求められているが、いずれも祝日を利用して「女性も半分の天を担える」、「男女に区別がない」という意識を国民の頭の中に刻みつけ、党が女性を解放し平等の地位にしたと宣伝する一方で、また党に模範的な女性に忠誠心を発揮させ、大衆に対して洗脳を行うためである。

「メーデー」は一八八六年五月一日に起源し、米国シカゴを中心に約三十五万人が大規模なストライキを行って、労動条件の改善と八時間勤務の実行を求めた。共産党は「メーデー」を党の祝日にして、祝賀イベントを通じて民衆に「社会主義の優位性」を宣伝して、また「労働模範」を選出することを通して、仕事に優れる実績を出した労働者を表彰して、ひいてはその場で共産党に加入してもらった。これで労働者にやり甲斐を感じさせて、これはすべて中国共産党のおかげだと思わせる。こうすると各優秀労働者所在の業界にまで共産党は影響を及ぼすことができ、また党の面子を立てることもできた。

「五・四青年デー」は一九一九年の「五・四運動」に起源する。「五・四運動」はもともと国家主権を守るための愛国運動だったが、「自覚した中国無産階級が初めて独立した政治的な力となって、政治の舞台に上がった象徴」のように中国共産党に宣伝された。

(続く)