【伝統文化】己に厳しく、人には寛大に

2006/09/18 16:32
 【大紀元日本9月18日】範忠宣公純仁(即ち、範仲淹の息子・範純仁)は、しばしば息子を戒めてこう言った。「最も愚かな人であっても、他の人を咎めるときははっきりしている。一方、とても聡明な人でも、自分を許すときはぼんやりしている。もし、人を咎める心で自分を咎め、自分を許す心で人を許すことができたなら、必ずや聖賢の域に達するであろう。」

 ある人が範忠宣公に、人として世に処する道理を尋ねたところ、彼は、「つましさこそが廉恥の心を育て、寛大さこそが仁徳の心を生み出す」と答えた。範純仁自身は、普段から修養を積み、食べ物を選り好みすることもなく、役所から帰ってくると、すぐに粗末な服に着替えるのを常とした。幼いときから老いるまで、小役人のときから地位の高い役人になるまで、常にこうであった。

 世の人々は子供たちに、「己を厳しく律し、人には寛大に接する」よう教える。しかし、それを確実にやろうとするのは、実に難しい。なぜなら、普通の人は往々にして、世の中の不十分さや醜さを見ると、不満に思ったり不機嫌に感じたりするからである。そして、非難の心が現れ、他の人を咎めたくなるのだ。そのため、どんなに愚かな人でも、他の人の過ちは、常にはっきり見え、はっきり指摘することができる。一方、聡明な人が自分の過ちに気づき反省しようとしても、ぼんやりしており、とても難しい。そこで、範純仁は子弟に、徳行を成し遂げるには、「人を責める心で己を責め、己を許す心で人を許す」のが肝心であると戒めた。人の過ちを見て、自分が同じ過ちを犯さないよう戒めることができれば、容易に進歩することができる。自分を許すのは容易いが、人を許すのは難しい。自分を許す心で人を許すことができれば、必ずや聖賢の域に達することができる。

 普段、私たちは、多くの道理をもって自分の悩みを覆い隠し、人の過ちを見て、自分だけは、たいしたものだと思う。これでは、徳行の進歩は極めて難しい。徳行を養う第一歩は、努めて自分の過ちを見ることである。道理を学び、それによって他の人の過ちを見るのは易しいが、それによって己を省みるのはとても難しく、大きな力を必要とする。しかも、ただ道理上で巡るだけでは役に立たず、自ら身を持って実践しなければならない。従って、矛盾や困難に遭ったとき、改めるべきは常に、まずは自分自身であり、他の人を非難したり恨んだりしてはならない。私たちがもし、常に自分を鏡に映して省みることができ、寛容な心で人の過ちを大目に見ることができれば、自分の徳が増えるだけでなく、人を教え諭し、良いほうに導くことが出来るのである。
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