中国伝統の美徳「孝順」

2007年03月11日 23時18分
【大紀元日本3月11日】「孝」は、中華民族の伝統的な美徳である。現在の人々が言っている「孝順」とは、一般人の心中では、「孝」は父母に対するものであり、「孝」とはすなわち「順」(従うこと)である。しかしながら、本当の「孝」とは、実際にはもっと深い意味を含んでおり、より広義においては人の品徳である。それは、勿論父母に対してだけでなく、父母に対する「孝」は、その中の一部分にしか過ぎず、単純に父母に順ずるだけが「孝」ではない。

 儒家の経典「孝経」では、孔子の「孝」に対する解釈が、非常に詳細に解説されている。

 孔子によると、「孝」とは、「親に仕えることを始めとし、君子に仕えることをその過程とし、身を立てることをその終わりとする」である。その大意とは、「孝」とは、小局的には肉親の関係上で、中局的には君子に仕える社会的な関係上で、大局的には一個の大人が社会に処する道徳修養上で体現するものである。言い換えれば、父母に対する「孝」は、小局的な体現であり、「孝」とはより広い意味のある品徳なのである。

 人によって社会的に立場も地位が違うし、その責任も自ずと違うため、「孝」の具体的な表現は完全に同じものではない。「天子(国の最高権力者)」について言えば、自らの肉親を愛するように民衆を愛すれば、民衆はその恩愛に感謝するようになる。これが天子の「孝」である。「士大夫」について言えば、自らの父母を愛するように君主や年長者に接し、「忠順」を失わないようにすれば、それが士大夫の「孝」である。一般大衆について言えば、天地の道に遵い、勤倹節約に努め、父母を養う、これが一般大衆の「孝」である。本当の「孝」とは、一個の人を指して言えば、自らの肉親に接するように身辺の人全てにも接するということで、「孝」とは一種の血縁を超越した、より広い意味での博愛である。「孝をもって教える。もって天下がこれを敬い、人の父と為すなり」。無私博愛の精神は、父母肉親に対する愛情をその基礎とする。父母に対する愛は、より広義な博愛精神が肉親関係上で表現されたものである。孔子が説く、「まず始めに一般大衆に博愛を教える」というのは、自らの肉親を放棄しろと言っているわけではない。

 現在の多くの人たちは、「孝」と言えば「光宗耀租」を思い起こすだろう。これは、孔子の「孝経」に由来していると思うのだが、「五体満足な身体を父母から受ける。敢えてこれを傷つけない。これが孝の始めである。身を立て、道を行う。名を揚げ、後世に名を残す。もって父母を顕わす。孝の終わりなり」というものだ。しかしながら、皆さんは「名を揚げ、後世に名を残す」に着目することはあっても、「身を立て、道を行う」ほうを見落としがちだ。ここでのポイントは、「身を立て、道を行う」のが先で、「名を揚げ、後世に残す」のは後になるということだ。人類の道徳水準が比較的高かった昔に、名を揚げ後世に残したのは皆、有徳の人たちだった。それは、身を立て、道を行った結果であり、却ってそれ自体はその人の目的ではなかった。「孝」とは、身を立て、道を行って到達するところだ。現在、人類の道徳水準は、右肩下がりに滑落しており、「名を揚げ、後世に残す」意味も変性し、上を目指して向上する人が選択するものではなくなっている。実際、本当の「孝」とは、身を修め、徳を養って実現するものだ。

 では、具体的な行為の上で、「孝」とはどのようなところで体現されるのだろうか?父母に物質的に豊かな生活をさせることなのか?そうではない。勿論、子女として父母を養うのは当然のことだが、それよりもっと重要なことがある。身を修め、徳を養う人は、父母に長期的な幸福と安寧を約束するのだ。傲慢で嫉妬深い人は、一時の利益に執着するあまり、時間が経つにつれ往々にして自分の罪業によって、父母肉親に災難迷惑をかけてしまう。孔子「孝経」の一節によれば、もし人が恥を知らないならば(傲慢にならず、臣下として乱れず、仲間と争わずの起居生活)、父母を養うことにやっきになったとしても、それは「孝」とは考えられない。内面における道徳修養は、表面上の行為よりもよっぽど重要だ。

 多くの人々の観念では、父母の要求に順じることが「孝」だと思っているようだ。実際、これは「孝」の普遍的な理解の結果にしか過ぎない。臣下の「孝」とは、君子の不義に盲従する「ばか」になることではなく、子女の「孝」も父母の不義に従うことではない。もし、君主や父母が良くないことをしたら、臣下や子女は、これと争わなくてはならない。言い換えれば、父母への孝順は、犠牲をもって推し量ることができないものである。もし父母への孝順が、名を汚すような事情であり、実際それが父母の不義であるならば、それは「孝」として論ずることができないものだ。

 中華文明は、奥行きが深く、幅も広い。しかし結局のところ、道徳がその核心部分だ。「孝」もその一つだ。道徳的に高尚な人は、自らの肉親を無私の心境で愛し、矛盾がなければ父母にそのように接しても良く、ここ一番においてはそれが自らに向けられても問題はない。社会が発展するにつれて、道徳は逆に下降した。「孝」の深い意味合いも徐々に歪曲され、偏狭で表面的なものになってしまった。実際、現代社会の人々が、肉親に対する「愛」を体現できないようになったら、その社会はすでに危険な状態になっているだろう。

「看中国」より転載


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