【党文化の解体】第4章(18)

【大紀元日本7月1日】

4.党文化がなければ、もはや正常な話し方や思惟ができなくなっている中国人

4)党文化という決まり切った思惟方法から抜け出せない中国人(下)

人々が党文化から抜け出せないために、中共は思い通りに民衆の思想や行を動かし、統制することができてしまう。中共は瀕死の人と同じように強心剤に依拠しなければならない―面子を保つプロジェクト、三峡ダム、神五神六(宇宙飛行機)、オリンピックの開催等等。我々が見えるのは、多くの中国国民が中共と共に興奮し、中共と共に大声で叫ぶ。危機が至るところに潜んでいる今の世の中で、我々は人々の理性と冷静を見ることができなくなっている。我々が見えるのはただ盲目な大騒ぎの中で党文化により作り上げた抑圧から解放されたかのような気持ちと有頂点になるような気持ち。中共は莫大な金を使って所謂面子を保つプロジェクトを行い、民衆の生死に関わる差し迫った事態への取り組みはまったく関心を持たず、中共が必要するのはただぐらぐらして今にも崩壊しそうな政権を維持するための「粉飾」のみであり、人心を騙しているだけである。

皆が分かっているように、教育と医療の保障は、一国の国民生活水準を評価するための重要な指標となっている。教育は国民の生計に関わり、とりわけ民族の未来と関わる大事なことである。しかし、これは中共の利益の核心部分ではないので、そのため、長期にわたり、中共が教育に対する投資の国内総生産に占める割合から言えば、わずか2~4%程度である。世界ランキング100位のアフリカの小国であるウガンダよりも低いほどだ。そして、中国の医療制度は国民が病気治療を受けるための負担ができないほどの事態をもたらした。一昔は広大な農民たちは医療保険がなかったが、今現在になって、多くの都市部の住民でさえ病気治療を受けるための負担ができない状態に陥っている。中国人の貯蓄率がこれほど高い数値から下がらない理由は、正しく将来に対する不安が取り除かれなくて、お金を使いたくないからである。西側のメディアからよく次のような質問が出される。中共は一方で世界の強国になるために各地で人目を惹くような行動をするが、もう一方で真に中国が強国になるための基本的問題を長期的に無視している。我々が難解しているのは、中共の指導者たちが一体何をしたいのかということだ。

中共の改革は生れ付きの障害を持つ改革である。しかし、党文化の枠組の中からすれば、民衆は格別に中共を理解し、中共を評価してしまう。曰く、(今は)イデオロギー的阻害があるので、中共の改革は「黙ってやる」と言うタイプで、ある程度の効果が上がったら、理論までに拡大し、経済改革から政治改革へと推進する。まるである日突然中国人民が全民選挙により大統領を選出し、このような効果があったら、中共は正式の民主主義をやると宣言するかのようである。実のところ、中共にとっては原則と言えるものが存在しないのである。その統制に有利でさえあれば、何でもやる。しかし、如何なる意義のある政治体制改革は必ずや中共の崩壊をもたらすので、そのため、経済領域においては、中共は所謂「黙ってやる」、皆は金に廻され、享楽にふけ、政治領域においては、中共は所謂「口ばかりする」。もしネットで「政治体制改革」を検索してみたら、中共の統制下のメディア上では実にこの言葉はにぎわいのある表現となっていることが分かる。「全面的に経済政治体制改革を推進する」「政治体制改革の特区を設立する」「全面的に政治体制改革の目標と根本を把握する」「政治体制改革は社会主義民主を推進する」「政治体制改革は氷を破り出航する」「中国の政治体制改革は巨大な成績を上げた」「環境対策と政治体制改革」「政治体制改革を持って腐敗と戦う」「政治体制改革は中国の経済発展の唯一の出口である」……。しかし、人々のすべての言論は皆党文化の枠組の中での「空回り」である。まるですぐ倒れそうになっているビルであるにもかかわらず、人々が考えているのはこのビルの中の部屋を如何に装飾するかのような話だ。党文化の枠組から抜け出せば、中共による改革の本質を分かってくるし、中共の改革は唯その統制を維持するための改革に過ぎないであることを分かってくる。そして、中共は歴史の舞台から退きたくもないし、その勇気もないことが分かれば、中共が自らの改良を寄していることは、労して功なしに違いない話である。

指導者が交代し、新しい世代が登場すれば、いずれ自由になるのではないかという人がいる。これは大きな誤解である。人民による努力がなければ、独裁国家には真の民主自由がやってこないはずである。

皆がすでに気付いたことであるが、現在、若い世代がいったん管理職に就くと、多くの人は上の世代より大胆になっている。ここで言う大胆とは、民主をやるのに大胆になっているのではなく、権力、金銭、出鱈目をやるのにもっと大胆になっていることである。彼らは正に共産党の体制の中で居て、共産党のやり方を熟知した上で権勢のある人にうまく取り入れって私利を計ってきた連中である。彼らは共産党の原罪を持ったままで詰め上がってきた人だから、彼らは理想をもっていない。彼らの心の中で思っているのは個人的、家族的、集団的利益のみで、彼らは手中の権力を人民に返すことは期待できないのである。仮に個別的な人がそう想っても、彼らが直面しているのは共産党という全面的な暴力機構と一人の利益を損害させれば全体が崩壊してしまうような利益集団である。

現下の中共の指導権の引継ぎが比較的うまくいているのを見て、中共は進歩したと思う人が出てくる。実のところ、過去に共産党の地位が比較的に強固であった頃、権力闘争は個人と個人の間の赤裸々の闘争として現れ、彼らは「党が破滅しそう」の後顧の憂をしていないからである。しかし今日では、中共の「亡党の危機」は焦眉の急となっており、党の統制を維持すること自体が中共の共通認識であり、党の集団的利益は個人の利益の最良の保護となる。そのため、権力闘争は「大局の維持」を建前にして、実に「集団」間による闘争と化してしまう。表面上においては静かになったかのように見えるが、実際にブラックボックス式の闘争はさらに熾烈になっている。党の統制を維持しながら、権力や利益のための闘争も続けるため、その争いはさらに複雑になり、危機もより厳重になる。一つの例に例えると、ある町では、昔は二人のごろつきが居て、今はそれぞれ集団化になって、闇の世界へ転じ、黒社会(マフィア)になってしまい、これは過去よりも恐ろしいことである。中共の現在の所謂権力交替の「制度化」というものは、実はブラックボックスの制度化であり、ごろつきの集団化で、完全に黒社会(マフィア)化している。

結語

何十年来、中共による人々の思想を改造するための努力は変わりがなかった。熾烈な批判大会、無味乾燥な政治学習、親しみを感じる文芸番組、皆中共による党文化を注ぐための有効な道具となる。五千年の歴史に刻まれてきた中華文化の道徳観や価値観といったものは、最後は、共産党のこの種の閉鎖的世論宣伝に抵抗できなくなった。人々の思想は本当に改造されてしまった。

民衆がいつも言うように、中華民族は勤労、勇敢、智慧に満ちた民族であり、輝かしい歴史文明を創り上げた。現下の所謂「人口が多く、底が薄い(国力が弱い)」国情の本では、全民族の智慧と根気を持って、共に国事を講じることがさらに必要としている。しかし、人々の智慧は党文化により抑制され、思考する権利を共産党に譲った。重大たる国策の前で、党が思うことしか思わなく、党がやることしかやらず、智慧は党によって制限された。

共産党は神伝文化を引き継ぐ炎黄子孫を神の存在を信じない民族に変え、天地神明に敬う善良たる民衆を天地をも恐れずの兇徒へと教唆してしまう。道徳敗壊、悪事なら何でもやる、嘘偽りを言う、下品な挙動、このような民族はどのようにして世界の中から「勃興」できるのであろうか。

党文化が中国の民族にもたらした災難は重大である。共産党が関心をもっているのは、ただ自己の個人利益や集団利益のみである。自己により行ってきた悪行のために各種の言い訳を探る。一種の犯罪的心理から言えば、これは当然当たり前のことである。しかし、共産党自身はどのように考えているのかを別にして、今日の人民大衆が関心を持っているのは彼らの生活だけでなく、国家や民族の長期的安定も同様の関心事である。もし共産党の自己利益の維持を根本目的とする思惟やロジックを受け入れ、民族の未来を考慮の外に置くと、それは明知のある挙と言えないだろう。

「中共に時間を与えよう」、これは人々が中共の問題を回避する常用の言い訳である。まるで多くの選択の中から、今回は取敢えず中共により多くの時間を与えてみようという風に聞こえるが、しかし、実のところ人々は選択する余地を持っていない。このような言い方をする人は、自己に対してある種の心理的バランスを求めようとしているだけである。時間そのものは中国を変えることができない。与えられて時間の中で、人民による努力こそ真に中国を変えることができるのである。中共を解体し、党文化を解体し、中国が自由に発展するための根本的阻害要因を取り除き、人民が正常な思惟ができるように回帰すれば、はじめて中国民族の新たな奮起の希望が現れるのである。

(第4章完)