能楽『菊慈童』 (菊水の由来譚)

2007年09月06日 01時16分
 【大紀元日本9月6日】周(紀元前1046―紀元前256年)の時代。周王朝の第5代王・穆(ぼく)王は八頭の駿馬を駆って、異民族を征服したと伝えられる。穆王八駿は霧を纏い、地に足をつけることなく、羽ばたく如く自身の影を追い抜いて、超光速で走るという別格の馬ぞろいだ。断るまでもなくこれら天駆ける神馬は、地に降り立って玉座に侍る龍馬=ドラゴンの別称に他ならない。

 神話的王・穆王は八駿を御して、中国全土の龍脈の道を制する大旅行を敢行した。龍脈の本源である崑崙山に登り、西王母に邂逅して歓待を受けお互いの贈り物を交換し合ったと伝説は語る。聖地における贈り物の交換は、秘儀伝授の姿を留めるものである。西王母から、三千年に一度実る桃の実を受け取ったという。

 大旅行家・穆王はインドの地に到り、霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦様に出会って法華経の八句の偈(げ)を賜った。偈は詩の形式で仏法を説いたもの。この八句の偈の内の二句「具一切功徳慈眼視慈衆生、福聚海無量是故応頂礼」が、『菊慈童』物語りで重要な働きをなす。穆王(?-紀元前940年)とお釈迦様(紀元前5-6世紀)との出会いは、考証学的には合わない。しかし神話的物語りが織り成す時空では、歴史的時間が溶かされて何事もなく推移する。過去の想い出も未来の出現も神の懐の中で等しく現在化され、不可思議の由来を事も無げに称揚するのである。

 能楽『菊慈童』の舞台は、中国河南省酈縣(れっけん)山。三国志でお馴染みの魏の文帝(曹操の子、紀元220年頃)の時代。文帝は勅使を遣わして、不老長寿の水が湧き出ている水源を探させた。ようやく勅使は酈縣山の山中に、おごそかな庵を発見する。周りは菊の花が咲き乱れて、神秘な雰囲気に満ちている仙境の只中。庵の中から菊花の精と見紛うばかり・・・、一人の童子が舞うように現れ出づる。

 題材は太平記から採られた。もちろん中国にはない物語り。日本の趣向を色濃く反映するストーリーが創作された。この菊水譚から陰暦9月9日、中国の「重陽の宴」が発生したのだと、まことしやかに語って見せているほどである。中国の神仙伝を本歌取りして、日本独自のモノ語りを謡ってみせた。天子の夢を紡ぐ「邯鄲の枕」を跨いだ罪を、菊花咲き乱れる流刑の地で悲運に耐えて仏の功徳によって贖(あがな)った菊慈童こそが、この世に不死の霊薬を運ぶ役目を負っている。それは時代を越えて今も変わらず、・・・継承されている真実の物語りである。

 邯鄲の枕の夢から目覚めたかのように、庵から現れた童が一人つぶやいた。「百年の栄華を見させるのが邯鄲の夢であるけれど、私の枕は昔の悲しい思い出を思い出させるばかりだ」。この奇(あや)しく光り輝く童は、周王朝の穆王に寵愛されていた菊慈童の成れの果ての姿。周から魏へ、時はすでに700年を過ぎているにも拘わらず、なお若々しく童は生を永らえていた。この異様な若さが漂わす輝きに、勅使は怪訝(けげん)の思いを抱いて様子を見守っていた。

 この芳しくも美しい菊慈童の正体の謎が、次第に明かされてゆく。菊慈童は穆王の枕を過って跨いでしまった罪によって、配流の処分を受けて酈縣山に隠れ棲んでいたのだった。周から魏へと700年の時を経ていることを、菊慈童自身もまだ知らない。菊の香り流れる仙境を、未だ誰も訪ずれてはいなかった。仙境の無時間の推移を計るのは、外部との接触による他はない。

 勅使はようやく不思議の思いを飲み込んで、奇しき人の名を決然と尋ねた。「この人跡未踏の山中は、狐や狼などの野獣が住むところ(人がいるとは怪しい)。現れ出づる様を見ると、まさに化けモノと思われる人の姿。如何なるモノか、名を名乗れ!」

 奇しい光を放つ童が、それに応えた。「ここは人が通わぬ所です。あなたこそ化生のモノではありませんか? 私は周の穆王に召し使えていた慈童です」 勅使はこの応えに戸惑いを禁じえなかった。周の時代より700年を過ぎ、魏の文帝の御世になっていたからである。これより舞台は佳境の問答に入る。

 勅使「何と不思議なことを言う。今は魏の文帝の御世。(あなたの言う周の穆王の時代からは)700年も経っている。悲想悲々想天(仏が住むという無色界の最上天)に住まうならいざ知らず、かくも生き永らえているとは人間とは思えない。ますますもって不審。その身はやはり、化生のモノではあるまいか?」

 慈童「私は周王より、(直筆の)二句の偈を書き記した枕を賜っています。立ち寄って枕をご覧下さい」。勅使たちが立ち寄って検分してみると、枕に記された偈は周王のものに疑いはなかった。二句の偈とは・・・「具一切功徳慈眼視慈衆生、福聚海無量応頂礼」(仏法は一切の功徳を具えて、衆生を慈悲の眼で眺める。福は海に満ちるが如く無量に注がれる故に、頂礼すべきである)

 慈童は周王から賜った二句の偈を、忘れないようにと菊の葉に書き付け、十方を礼拝して毎日唱えていた。この菊の葉に溜まった露が滴り落ちて霊水となり、この水を飲んだ者は誰も老いることなく病も癒えたという。この噂を魏の文王が聞き及んで、勅使が派遣されたのだった。

 かくして事の次第が判明した。慈童は菊水を飲むことによって700歳を経てなお、若々しい童顔の姿を保っていた。そればかりではなく菊水は山間を潤して流れ、麓に暮らす村人たちも千歳一遇の長寿を得て健やかに過ごしていた。菊慈童は仏の功徳がもたらした菊水を讃え、魏の文王に献じ勅使たちにも飲み干すように奨めた。

 菊水はいくら汲んでも、その泉は尽きることはない。天の霊水で酔ったからといって、この世のお酒のように身を毒することは決してない。天界の有頂天を感得させる、有り難い霊薬なのである。人間という死すべき果敢ない露の身が、功徳の水=菊の露によって救済される。菊水の有り難さを寿(ことほ)いで、慈童が軽やかに舞う。そして菊で編んだ籬(まがき)の庵の中へ、悲しみを非に変えた舞の香りを残して消えていった。

(波)


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