【大紀元日本10月16日】遣唐使の船旅は、行きも帰りも危険極まる。
日本人留学僧の求めに応じて日本行きを決意した唐僧・鑑真が、七度目の渡海にしてようやく日本に着いたときには、長年の労苦のあまり失明していたことはよく知られている。
その危険な海路を越え、山上(やまのうえの)憶良(おくら)は生きて日本に帰ってきた。慶雲元年(七〇四年)か四年に帰国したらしいので、在唐期間は二年または五年ということになるだろうか。
遣唐使の務めを十分に果たした功績が認められたのであろう。はじめ無位無冠だった憶良はこの後、遅ればせながら官人としての階段をゆっくりと昇ってゆくのだが、せいぜい地方長官どまりの地位であったから、特に出世できたというほどではない。
ところが、実際にどうであったかはともかく、私たちが万葉集に見られる憶良の秀歌から想像するに、彼には名誉栄達に執着するような凡欲はなかったようなのである。
彼は、筑前守や伯耆守などの国司としての職務を忠実にこなしながら、庶民の生活に心を寄せその貧苦をいたわって「貧窮問答歌」を歌い、子どもを愛してやまぬ珠玉の名歌「子等を思ふ歌」を残した。
世間(よのなか)を優(う)しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
銀(しろかね)も金(くがね)も玉(たま)も何せむに 優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
七十四歳という当時としては奇跡的な長寿を全うした万葉歌人・山上憶良が、ヒューマニストと呼ばれ、人生歌人と尊称されるに十分な根拠が、彼自身の歌の中に確かにある。
だからこそ現代の日本人もまた、憶良の歌とともに、憶良その人を愛するのである。
それにしても、なぜ憶良にそのような豊かな人間性が備えられたのであろう。
仮説のうえに推論を重ねることを許していただけるなら、幼少時に朝鮮半島の百済滅亡によって日本へ避難してきた憶良は、生地とは異なる文化の日本で自己を形成し、また遣唐使として唐土へ派遣された折には、絢爛たる唐文化のなかに身を置いてその精華を大いに吸収したはずだ。さらに晩年には、地方官として親しく庶民に接する経験ももった。
この生涯にわたる豊かな文化体験こそ、山上憶良と他の万葉歌人との決定的な違いであるとすれば、人間・憶良の実像が、私たちの網膜に焦点を結んでくるような気がしまいか。
中国で「調和社会」というならば、憶良が在唐時代に見た光景こそ、異文化が見事に共生する本物の「調和社会」というべきであろう。
沈みゆく泥舟のような中国共産党のもとで、もはや「調和社会」はありえない。(了)
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