中国第一の名将、韓信(1)

2007年11月03日 01時00分
 【大紀元日本11月3日】
苦難の中に生きる

漢朝建国の名将である韓信は、平民身元の英雄で、同時に中国軍事史上、前後に例を見ることができない稀な人物だ。
天地間に邪悪勢力(運命と言ってもよかろう)が蔓延って、あの手この手で韓信を邪魔した。その結果、彼は一生の間に常人では考えられないような苦難に遭ったが、韓信は挫けるたびに勇気を奮い起こし、不撓不屈であった。このため、長く言い伝えられるような佳言やエピソードを残し、後世の手本となった。

一飯の恩義

韓信は江蘇淮陰に出生して、年少時に両親を亡くし、家の生活は貧しかったため、一日三度の食事もままならず、親友に頼るしかなかった。
あるとき、彼は亭長(農村等の治安担当役人)の親友を頼って食客となっていたが、食事の量がかさむからと、亭長の妻は彼を冷たくあしらい、わざと三度の飯を供しなかった。
とうとう、亭長の妻は、連日早起きして飯を作ると、直接亭長とベッドの上で食べてしまったので、韓信が起きてきても、鍋の中には何もなかった。結局、韓信はやむを得ず、空きっ腹を抱えて、亭長の家を出た。
韓信は飢えを忍んで,河辺で釣りをし,魚が釣れるといくばくかの銭に換え、釣れない時には、河辺で洗濯している婦人たちに飯を恵んでもらった。
そのうちのある老婆が彼を憐れんで、しばしば自分の食事を彼に分け与え、しかも彼を激励して、「男たるもの、志を立てなければいけない。終日、他人に頼っていてはいけない。努力しなくては!」 韓信は、この激励を受け、努力して自己の前途を切り開こうと決心した。
後に韓信は出世し故郷に錦を飾った際、当時老婆が飯を恵んでくれたことを決して忘れず、特別に千金を送り、感謝の意を表した。

恥を忍んで股下をくぐる

若い時の韓信は早くから読書に刻苦することを知り、兵法を熟演する天与の才能を持っていたことから、国家天下を安定させたいという抱負を抱くようになり、中華伝統文化中の兵学部分を築き上げたいという大志をもつようになった。
ところが、運命の邪悪勢力は、韓信の兵学が華夏の子孫に用いられることを恐れ、それを滅ぼそうと、韓信の周囲の人を教唆して韓信を冷遇し蔑視させた。
あるとき、無頼漢の悪党らが韓信を辱め、韓信に人殺しをさせようとたくらんだ。実はそれは、一刻も早く韓信を挫き、その志を駄目にしようとしたのであった。
ところが、韓信はこの悪の小細工を見破り、逆に、中華伝統文化中の「忍」の内包を強め成就することとなった。そこから、「忍」の心を説く「韓信の股くぐり」の故事で生まれたのである。

蕭何、月下に韓信を追う

紀元前209年、陳勝、呉広が挙兵して立ち上がった。
韓信は剣を携えて項梁の西楚軍に参加した。項梁の戦死後、運命の邪悪勢力は韓信が兵法を発揮するのではと恐れ、故意に項羽が韓信を重視しないようにした。
韓信は、西楚軍を離れて劉邦の漢軍に身を寄せたが、運命の邪悪勢力はあれこれと妨害して、劉邦が韓信を信用しないようにしむけた。
その結果、韓信は一旦は漢軍の宿営地を離れることになるのだが、そこから、「蕭何、月下に韓信を追う」の故事が生まれた。後に、劉邦は蕭何の諌言を受け入れ、やっとみずから韓信と軍国の大事を討論し、韓信が稀代の才能を持っていると確信して、儀式を執り行って大将に任命した。

漢の天下、韓信の出撃に頼る

このとき、劉邦はまさに関中(現在の陝西省)を取り戻そうと準備していた。
劉邦は蕭何の進言を受け入れ、これより、文は蕭何に、武は韓信に頼み、挙兵して東に向かい、天下を争奪した。
漢の高祖元年(紀元前206年)5月、韓信は、「昼は桟道を修理して、夜は陳倉を渉る」作戦で、西楚の章邯軍を大きく打ち破り、一挙に関中地区を制圧して、劉邦に三秦を掌握させた。
漢の高祖2年(紀元前205年)8月、劉邦は韓信を左丞相に封じ、兵を挙げて魏を攻めた。韓信は、一方で黄河西岸の臨晋に大量の船を集結させて、魏王豹軍の主力を引き付けておき、もう一方で上流の夏陽から河を渡って安邑を奇襲し、突然に魏軍の背後に出現して、魏軍を大破し、魏王豹を捕虜とした。
(翻訳:太源)

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