中国第一の名将、韓信(2)

2007年11月11日 14時11分
 【大紀元日本11月11日】

背水の陣

 漢の高祖三年(紀元前204年)10月、韓信は新たに徴募した新兵一万人による漢軍を率いて、太行山を越えた。東に向って、項羽の属国・趙を攻撃するためである。趙王と大将の陳余は20万の兵力を配置集中して、太行山の東の要害・井陘口を占拠して、迎撃の準備をした。井陘口の西は、百里も続く狭い一本道で、両側に山が迫っているが、韓信が必ず通らねばならない道であった。

 趙軍の参謀・李左車は、正面は死守するものの交戦はせず、隊を後方に派遣して韓信の糧道を断ち、韓信を井陘の狭い道に封じ込めようという策を献じた。

 ところが、陳余はこれを聞き入れず、「韓信はわずかに数千人だ。遠路はるばる来たのに、もしわれわれがこれを避けて交戦しなければ、諸侯たちの物笑いにになるではないか?」と述べた。

 韓信はこの知らせを探知すると、迅速に漢軍を井陘の狭道に進入させ、井陘口から三十里のところまで進んで宿営をした。真夜中、韓信は2千騎を派遣して、それぞれに漢軍の旗を持たせ、小道から迂回して、趙軍の大宿営地の後方に伏せさせた。韓信は、この一隊に、「交戦時、趙軍は、わが軍が敗走するのを見ると、必ずや全軍を出して追撃してくるに違いない。そこで、おまえたちは素早く趙軍の宿営地に侵入して、趙軍の旗指物を抜き取り、漢軍の紅旗を立てるのだ」と指示した。

 残りの漢軍は、簡単に食事を済ませると、すぐさま井陘口に向って出発した。井陘口に到着すると、大隊は綿蔓水(めんまんすい)を渡り、大河を背にして陣容を張った。高所の趙軍は遠くからこれを見て、皆韓信を嘲笑った。

 夜が明けると、韓信は大将の旗印と儀仗を用意し、隊を率いて井陘口を出発した。そして、陳余が精鋭を率いて、韓信を生け捕りにしようと出撃してくると、韓信は、わざと旗を投げ捨て鼓を捨てるふりをして、川岸の陣地に逃げ戻った。陳余は、趙軍に全軍出撃するよう命令し、漢軍の陣地に迫った。

 大河を背に陣取った漢軍はもとより退路はなく、各兵士は勇敢に戦った。双方の斬合いは半日続いたが、趙軍は勝てなかった。

 このとき、趙軍は態勢を立て直すため宿営地に戻ろうとしたが、時すでに遅し。自軍の宿営地全てに漢軍の旗指物がはためていることを知り、隊伍はすぐさま大いに乱れてしまった。韓信はこの機に反撃を行い、その結果、趙軍は大敗、陳余は戦死し、趙王を捕虜として捕らえた。

 戦いの後、ある人が問うた。「兵法では、後ろに山を控え、水に面して陣を張る、とあるのに、今回は全くの逆でした。それなのに勝利したのは何故ですか?」 これに対して韓信は、「兵法にも、『これを死地に陥れてしかる後に生き、これを亡地に置きてしかる後に存す』(編者注:自軍の兵を逃げ場の無い絶体絶命の状況に追いやり、生き延びるために必死なるよう仕向けて戦わせたことをいう)と言われているではないか?お前たちはこれに気がつかなかっただけだ」と答えた。

半渡の計

 漢の高祖4年(紀元前203年)11月、韓信の大軍は、斉国の救援に来て、淮水の下流で漢軍と対峙している楚の将軍・竜且の20万の大軍を迎え撃った。韓信はまず、分遣隊を夜半に上流に向かわせ、土嚢でその流れを堰き止めた上で、夜明けに軍を派遣して楚軍を正面で迎え撃った。そして、わざと負けたふりをして潰走し、河を渡った。

 そこで、竜且将軍は、自ら軍を率いて准水を渡り追いかけてきた。このとき、漢軍は土嚢を突き崩し、楚軍は大水のために二つに分断された。韓信は、河を渡り終えた楚軍を全滅させ、竜且も殺した。まだ河を渡っていなかった斉楚連合軍は戦かわずして自滅した。

 韓信は、勢いに乗って軍を指揮して敵を追撃し、斉王の田広を捕虜にし、斉の地を全て平定した。これが、孫子兵法にある「半渡の計」である。

指揮の器

 あるとき、漢の高祖・劉邦は韓信に問うた。「もし私が、兵を率いるとすれば、どれぐらいの兵士を率いることができるか?」これに対して韓信は、「陛下は、兵士10万人を率いることができます」と答えた。漢の高祖はまた、「では、あなたはどれぐらいの兵を率いることができるのか?」と問うた。すると、韓信は笑って答えた。「多ければ、多いほどいいのです」。

 嫉妬深い劉邦は、兵を指揮する能力が韓信に及ばないかのように言われ、面白くなかった。韓信は、「陛下は兵を指揮するのは得意ではありませんが、将軍を指揮するのは上手です」と諭した。

 劉邦は、韓信の言う通りだということはわかっていたが、了見が狭く、韓信の能力が自分より上かもしれないと感じて、嫉妬と不信任の思いが日々増大していった。

四面楚歌

 漢の高祖5年(紀元前202年)12月、楚と漢の両軍は、垓下(現在の安徽省・霊璧南)で決戦を展開した。劉邦は、韓信を主将として、大軍の各部隊を統一して指揮させた。項羽は、楚軍10万を指揮して、正面から漢軍の陣地に向って猛攻撃を仕掛けた。

 韓信は、典型的な鶴翼の戦法を採用し、漢軍の本隊を少し後退させ、楚軍の鋭気を外し、両翼を展開して、側面攻撃を実行した後、再び本隊を推し進め、敵勢力の包囲を完成した。

 夜になって、韓信は、四方に展開した漢軍に楚の歌を歌わせ、ついには楚軍は戦意を喪失、漢軍によって包囲殲滅させられた。項羽は、既に大勢が決したと判断し、烏江の辺で自刎した。

 これによって、5年に及んだ楚と漢の戦いは、漢の劉邦が天下をとって終結したのである。

(翻訳:太源)

関連キーワード
^