清廉な官吏・楊鼎の座右の銘≪十思≫

2007/12/30 09:03
 【大紀元日本12月30日】清廉にして徳を守り、貧に安んじ道を楽しむは、人の美徳だ。中国では歴史上、清廉で徳を守り、貧に安んじ道を楽しむ賢人は、数多く見られ、明代の楊鼎がその一例である。

 楊鼎は、明朝の陝西・咸寧(今の西安)の人で、字は宗器、幼少の頃は家が貧しかったが、一際読書を好み、郷の試験ではトップ、中央の試験でも二番で合格し、史書の編纂を任せられ、戸部尚書にまでなり、「庄敏」の送り名を贈られた。

 楊鼎は、郷の試験をトップで合格した後、南京の国子監祭酒・陳敬宗が学問道徳にともに秀でていると伝え聞いて、すぐに南京の国子監に学業を成さんと師事を求めた。彼は婢僕を持たず、苦労して一心に読書に励み、みずから自炊し、泰然としていた。

 陳敬宗は彼の文章を考察し、その行動を観察して、感嘆した。「門を閉じて読書をし、貧賎に安んじる。たとえ顔回のような賢人であっても、彼のように傑出することはできないであろう!」と、彼の賢明さを称賛したという。

 ある太守が、自分の娘を彼に嫁にやろうとしたが、彼は父母に話していないことを口実にこれをていねいに辞退した。そこで太守は、楊鼎と同郷の兵部尚書である徐_qii_に頼んで、陳敬宗に口添えをしてもらった。「楊鼎は大変に清貧ですが、太守は大変に裕福です。楊の父母がこれを知れば、大変に安心するにちがいありません」。

 陳敬宗も楊鼎にこの縁談に応えるよう勧めた。しかし、楊鼎はこれに答えて、「私は、人として清貧ですが、道義的には豊かです。太守は、確かに金持ちですが、しかし道義上では却って貧しい。私がどうして富貴に憧れましょうや?」これを聞いて陳敬宗は、楊鼎の徳業をいっそう喜んだ。

 楊鼎が初めて戸部右侍郎の職に任じたとき、彼ははたしてこの職を全うできるのか疑問に思い、自ら次のような《十思》をしたためて座右の銘として励んだ。

 「量思寛,犯思忍,労思先,功思譲,坐思下,行思后,名思晦,位思卑,守思終,退思早」

 即ち、度量をもって広々とした気持ちで考え、他人の忌諱に触れることは忍耐して譲り、辛いことは率先して着手し、功労の前では退き譲り、席に座るときは人の下につき、道を行くときには人の後に付くようにし、名声は隠れて忍ぶことを思って、盛大であることを求めず、地位は人の下で寧居し、官のために道を始終堅持し、年齢が嵩んだらできるだけ早く退位する。

 楊鼎は、官として清廉公正であり、かつて人に、「私は平生、取るところのない者だが、廉恥の二字だけは知っている」と話したことがある。

 彼は、故郷に静善書院を建造し、先生を招いて故郷の子弟の教育をしてもらった。飢饉の年には、全ての貯えをなげうって故郷の復興にあてた。

 成化15年(1479)、楊鼎は再度上書して宮仕えからの退役を上申した。これは正に《十思》の中の「退思早」であった。明の憲宗はこれを聞き入れ、彼に終生まで、月に2石の米と四人の使役を賜った。明朝の大臣が宮仕えを終えてからも俸禄を賜るのは楊鼎が初めてであった。

(翻訳/編集・太源)

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