THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(7)

2008年01月18日 08時11分
 【大紀元日本1月18日】

 私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。そして、三日目の午前、中国東北部の大連市のそばにある旅順港に到着したのです。

 そこでは、下船して目にするのは日本人ばかりで、海軍服の軍人も皆、流暢な日本語をしゃべっていました。

 この港は確かに、朝鮮の羅津市の港より遥かに大きく、しかも、停泊している船の大多数は日本の国旗を掲げていました。船の形も私たちが乗っていた客船と違うし、羅津市で見た貨物船とも違いました。私は不思議に思い、母に聞きいたところ、「あれは軍艦で、軍隊が戦うときに使う船なのよ」と教えてくれました。

 どうして、中国の旅順港にこれほど大勢の日本の軍人がいるのか、当時の私には全くわかりませんでした。

 町を行きかう人々も、多くは日本語を話していました。たまに出会う綺麗な中国服を着た女性も、あまり上手ではありませんが、皆日本語で話していました。地理環境さえ違っていなければ、私は本当に、自分が日本から離れていないか、あるいは、また日本のどこかに戻ったと錯覚してしまうほどでした。

 まだ幼かった私が初めて踏んだ中国の地が、この旅順港でした。この町の町並は整然としていて、しかもとても広々としていました。多分、中国の国土が広いせいでしょう。道の両側には、緑の樹がきれいに並べて植えられており、その両側には同じデザインのグレーの建物が整然と並んでいました。全て二階建ての一軒家で、窓や玄関の色も形もほとんど同じでした。そこには皆日本人が住んでいるそうです。

 しかし、これらの建物の窓は小さくて、壁が厚く、東京の木造住宅とは少し違っているように感じました。日本の家の玄関は、ほとんどが引き戸で、窓も横引きタイプです。しかし、ここの窓は全部外に向かって開けるもので、落ちる心配がありませんでした。また、日本の家庭によく見られる草花や木々を植えた小さな庭も、ここではまったく見かけませんでした。とにかく、私の小さな頭でよくよく考えてみた結果、外国はやはり日本とは違うのだ、という結論に達しました。

 母が、「ここは冬になるととても寒いので、窓が大きいと家の中が随分寒くなる。それに、東京のような木造だったら、冬は部屋の中でも凍えてしまう」と教えてくれました。私はそれで初めて、中国の家は、壁がとても厚く、ツルツルして滑らかで、石でできているように見えるのに気がつきました。

 そこで、私は母に、「私たちが行くところも寒いの?こんな厚い壁の家に住むの?」と聞きました。母は、「私たちが行く黒龍江省の寧安県は、ここよりももっと寒いそうだから、きっと、もっと厚い壁でないと寒さを防げないかもしれない」と話してくれました。

 私は少し信じられませんでした。そんなに寒かったら、外を歩く時どうするのかしら?私は全く想像もできず、よくわかりませんでした。ただ、すぐにでも冬がやってきてほしいとも思いました。一体冬はどれほど寒いのか、人々はどのようにして路を歩くのかを見てみたいと思ったからです。

 私たち家族は、旅順から列車に乗り、その後バスに乗り換えて目的地を目指しました。ただ、列車もバスも大勢の人でギュウギュウ詰めで、しかも速度は遅いし、とても寒くも感じました。私は数日前の興奮と期待感がすっかり冷め、早く目的地に着いて、分厚い壁の家で暖を取れることばかり考えていました。

 道中私があれこれと突飛な想像をしているうちに、私たちは目的地の黒龍江省寧安県沙蘭鎮王家村の「タマゴ石溝」のそばにある「第十次長嶺八丈開拓団」に到着しました。そこには開拓団の本部が設置されていたのです。1944年3月のことです。

 (続く)


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