THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(21)「収容所での生活」

2008年03月15日 21時26分


馬蓮河収容所

 その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。

 私たちはそこに着くと、村の小学校に住むことになりました。そこも「義勇軍」の兵舎のようなところで、寝るには床に麦わらを敷かなければなりませんでした。ただ、麦わらは準備されていなかったので、自分たちで空き地へ行って盛ってこなければなりませんでした。私の家は、入り口の反対側の北側の壁の真ん中あたりでした。戸板はすでに壊れてちゃんと閉めることができないため、始終開けっ放しにするほかありませんでした。ですから、夜になると、かなり寒さを感じました。ガラスがなかったり、ドアがなかったりと、条件はかなり悪かったのですが、部屋の中に住むことができた分、雨風の際には、森林の露天よりはましでした。

 私たちがここに到着した翌日と翌々日に、別の開拓団から来た人たちが次々にここに集まってきました。人が随分多くなり、住むところもなく、家畜小屋や豚飼育場内に割り当てられられた人もいましたが、それでもどうにか雨風はしのげました。

 私たちが泊まっているところでは、元々各家庭の寝床は随分狭かったのですが、さらに何人か入ってきたので、一人分がますます狭くなりました。やっと身体を横たえられるだけの小さなスペースで、寝返りを打つのもできないほどでしたから、もし途中で起き上がって外へ出たりトイレに行こうものなら、帰ってきたときにはもう寝る場所はなくなっていました。

 ある日の夜、外は月が煌々と輝き、部屋の中を明るく照らしていました。私は蒸し暑くて、寝つけませんでした。そのうち、トイレに行きたいと思い、そっと起き上がって外に出ました。トイレは校舎の北西の角にあり、随分離れていました。幸いにも月が明るく、周りがよく見渡せたので、怖くはありませんでした。しかし、トイレから出て来て戻ろうとしたとき、校庭の西側から一匹のオオカミがやってくるのが見えました。月光の下で、尻尾を垂らしており、間違いなくオオカミでした。私はびっくりしてそこに立ちすくんでしまいました。

 森林で避難しているとき、ある人が、「オオカミの尻尾は長くて垂れており、その点が犬と違う」と教えてくれたことがあります。驚きのあまり、足がすくみ、どうしていいやら分りませんでした。しかし、その大きいオオカミは私が見えなかったようで、西の墻を飛び越えて、まっすぐ南のほうへ走り去っていきました。私はほっと一息つくと、急いで部屋へ帰りました。しかし、部屋に戻ってみると、すし詰め状態で、入り込む余地などありませんでした。母は目を覚ますと、自分のところに私を寝かせ、自身は壁にもたれかかりました。それ以来、私は決して夜中に外に出ないようにしました。戻ってきたら、自分の場所がなくなっているからです。

 馬蓮河屯は、「東京」の町の駅から近く、周りには多数の村があって、多くの中国人が住んでおり、しょっちゅう卵、揚げ菓子、焼き餅などの食べ物を売りにくる人もいました。毎回のように母は買っては、全部私たちに与えて、自分は一口も食べなかったので、私は、自分の分を半分母にあげるのでした。当時、こういった品は非常に高価だったのでしょう。子供たちが泣いてほしがっても、母親たちは買ってやりませんでした。おそらく買うお金がなかったのです。そんなとき、母はいつも私をお使いに出して、彼らに買ってやりました。

関連キーワード
LINE NEWSに『中国の今を伝える 大紀元時報』を登録する方法
^