THE EPOCH TIMES

【名医伝奇】三国演義中の神医─華佗

2008年04月04日 02時46分
 【大紀元日本4月4日】古代、多くの医学者は皆、特別な技能を持っていた。現代の言葉でいうところの「超能力」である。例えば、扁鵲(へんじゃく)は斉の桓公の顔を看て、その病状の進み具合を知ることができたし、華佗(かだ)は曹操の頭痛の原因が腫瘍であると見抜き、手術が必要であると診断した。なぜ彼らの医術がこのように奇跡的なのか、理解するのは難しい。

 「三国演義」の中の神医─華佗

 『三国演義』の第78篇は、「治病の神医が死し、奸雄の寿命は尽きる」である。エピソードによると、関羽父子が殺害されたのち、曹操は毎点xun_ォ夢を見るようになった。眼を閉じるだけで、関公が浮かんでくるので、曹操は大変に恐れていた。

 そこで、側近の文官や武官に、これは一体どういうことかと問いただした。衆官は本当のことを言う勇気がないから、作り話を言いきかせた。「洛陽の宮殿が妖怪どもに占拠されたので、新しく宮殿を立て直した方がいい」というのである。

 曹操は、「よし!それなら新しい宮殿を建てよう。新宮殿は建始殿と名付けよう」と言った。曹操はまた問うた。「では、どの大工が一番いいのか?」。すると、ある官僚が、洛陽の名人・蘇越が最も技術的に優れていると答えた。蘇越が来朝してから、曹操は今度の新宮殿はどのように設計されるのかと彼に質問した。蘇越が描いた図面を見せると、曹操は非常に喜んだ。ただ、設計は良いのだが、棟梁に使う上等の建築材料が必要だった。蘇越は、棟梁の材料について話した。「躍龍潭」のほとりに一つの祠があり、「躍龍祠」と呼ばれている。そこに大きな梨の木があり、とても高くて大きいので、建築材料にはもってこいのものだというのである。

 曹操はこれを聞いて大変に喜び、さっそく職人に木を切らせに行かせた。職人たちが梨の木に斧を入れてもビクともしなかったため、曹操に報告すると、曹操は自ら現場に来て、「どのような妖魔が棲みついているのか!なぜ私の職人に木を切らせないのか?」と叫んだ。そして、宝剣を抜くと、木に切りかかった。すると、真っ赤な鮮血のような樹液が噴き出してきて、曹操に降りかかった。曹操は大いに恐れ、剣を捨てて、馬に乗り宮殿に戻った。

 宮殿に帰った曹操は、ずっと安眠できず、激しい頭痛に見舞われた。たくさん薬を飲んでみたものの、治る手立てがなかった。

 曹操の臣下である華歆が進言した。「大王さまは、神医といわれる華陀をご存知ですか」。曹操は言った。「おう、知っているぞ。ただし名前を聞いてはいるが、その腕は知らん」。華歆は、「華陀は非常に優秀です。彼の医術は実にレベルが高く、世間でも滅多に見ることができません。病人がいると、薬、ハリ、灸などを用いて随意に治してしまいます。もし五臓六腑に病があって、薬物が効かないときは、麻沸散を飲ませて、病人を眠らせた状態にし、その腹を切り開き、その臓物を薬湯で洗い、病人が全く痛みを感じないうちに、その傷口をあらって縫い合わせ、膏薬をつけます。一月、あるいは二十日たつと治癒し、その効果は神妙です」」と言った。

 また、華歆は曹操に、華佗の別のエピソードを話した。ある日、華佗が道を歩いているとき、うめき声を聞いた。(声を聴いて病を判別するのは、中医の非常に重要な方法。いわゆる、望、聞、問、切など四つの診断方法がある。聞診はその声を聞いて病を知るもの)、華佗はうめき声を聞いて言った。「これは、飲食ができない病だ」。患者に問うと、やはり食べることができなかった。そこでニンニクなどの汁を三升絞って、病人に飲ませたところ、口から2-3尺の大蛇(寄生虫)が出てきた。その後、飲食ができるようになった。

 また、広陵の太守で、陳登というものがいた。胸の中は煩悶として顔が赤く、飲食ができず、華佗に救いを求めた。華佗が薬を処方すると、彼はすぐに三升ほどの虫を吐き出した。それらは赤い頭で、尻尾がくねくねとしていた。陳登は、これは一体どういうことかと質問した。華佗は、「あなたは、生魚を食べすぎたために、これらが悪さをしていたのです。今日は気分が良くなりますが、三年の後、必ずまたぶり返します。その時、もう救われません」。陳登は、果たして三年後に死亡した。薬を用いて病が治ることもあるが、再発することもあるということだ。

 華歆は、さらに次のようなエピソードを話した。ある人が足の指を犬に噛まれ、すぐに瘤が二つできた。一つは痛く、一つは痒く、耐えられるものではなかった。華陀は一目見るなり、「痛い方には、ハリが十本入っており、痒い方には黒白の碁石が二枚入っている」と言った。皆は信じていなかったが、華佗がメスで切り開くと、果たしてそのようであった。

 このように、華佗の診立ては神の領域であった。

 華歆がエピソードを幾つか話すと、曹操は心を動かされ、華佗を招聘するよう命じた。華佗はやってくると、曹操を一目見て述べた。「大王の頭痛は、風痰が原因です。病根が脳の中にあるため、たくさんの薬を服用しても、治らないのです。私に良い方法があります。まず「麻沸散」を飲んで、眠った状態となっていただき、刃物で頭を切り開き、風痰を取り除いて病根を断ち切るのです」。

 曹操は華佗の話を聴いて、烈火のごとく怒った。「おまえはわしを謀殺しようとしているな!」。華佗は言った。「大王はかつて関公様が肘に毒矢を受けた話を聞いたことがあるはず。私は、彼の肘の骨を削って、その毒を癒しました。関公様は少しも恐れる様子がありませんでした。今の大王さまの小さな病で、どうしてそのように疑うのでしょうか?」。曹操は大いに怒り言った。「肘を削ったといっても、頭はどうやって切り開くのか?」。

 曹操には知識がなく、頭をどうやって刃物で切り開いて風痰を取り出すのか知らず、怒って華佗に言った。「おまえは関羽とできていた。関羽が死んだ今、この機会をいいことに仇を討とうとしているな!」そこで、左右の側近に命じて華佗を捕らえた。

 華歆は曹操を諫めて、「このような名医はめったに見られません。見捨てないほうが良いでしょう」と言った。しかし、曹操は、華佗に殺害されることを恐れ、華佗を収監してしまった。

 華佗は収監されてから、監獄の中でもう自分に残された日が少ないことを知った。そこで、一人の獄卒に言った。「私は、『青嚢書』という書物を書いた。君は私の家に行ってそれをとってきてくれ。その本を君にあげよう。私が死んだら、少なくともその医術が失われないようにしてくれ」。その獄卒は『青嚢書』を受け取って自宅に置いた。

 後に華佗が死んでから、その獄卒は華佗の『青嚢書』を学び、将来は名医になろうとして、官職を辞して家に帰った。獄卒が家に戻ってみると、その妻が『青嚢書』を焼き捨てているところであった。パチパチと焼いて、ただ1、2ページだけが残るのみとなっていた。彼は怒って妻を殴った。「なぜ、そのように貴重な本を焼いてしまうのか」。その妻は、「その名医というのは、殺されたのではないか!あなたも医学を学んで名医になったら、きっと同じ命運を辿ります。絶対に名医になどさせられませんから」と言った。焼かれずに残ったこの1、2ページには、鶏の去勢と豚の去勢のことが書いてあった。このため、鶏と豚の去勢術が世間に残された。

 三国演義の中では、このあたりで一首の詩が添えられている。「華佗の仙術は長桑に匹敵し、その見識は扁鵲にも劣らない。華佗は亡くなり、その書は焼き尽くされ、後世の人が目にすることもない」。それから間もなくして、曹操の頭の病はますます重くなり、毎日のように悪夢を見、夢の中で奇妙なものを見て、いつも夜中になると頭痛と眩暈に襲われた。目を閉じると、死んだ皇后や自分が殺した董貴人や皇子、それらが皆顔面血だらけになって出てくるのだった。つまり、曹操は「幻覚」を患い、別の空間のものが見えて、それらを非常に恐れたのである。

 臣下たちは、彼に贖罪壇を設けることを進言し、清め祓いによって幻覚がなくなるかどうか見てみるべきだとした。曹操は自らの命運を悟り、「私はずいぶんと間違いを犯し、非常に悪いことを多くしてしまった。すでにその罪は天地を覆い、もはや天地の神に祈っても、助かる手だてはないだろう」と言った。彼は、自らの命運が尽きたことを自覚した。後に彼は吐き気を催し、目がはっきりと見えなくなり、間もなくして死亡した。

 麻沸散─漢方医学の麻酔薬

 麻沸散は早くに伝承が途絶えたが、古典の中にはその他の麻酔薬が記載されている。例えば、『傷科大成』の中には、二種類の麻酔薬が記載されている。一つは「麻薬」と呼び、もう一種は「整骨麻薬」である。服用すると、患者は感覚を失い手術が可能になる。麻酔薬の成分には、がまの油、生半夏、シャクナゲ、胡椒、川烏、トリカブト、麻黄などがあり、これらのものをすりつぶして粉にして、酒で調合して飲むと、メスで切っても痛みを感じることもなく、手術が可能になる。

 華佗が、曹操の頭を切り開くのに必要な麻沸散は、大体このような生薬だと考えられている。がまの油には毒があって、舐めると舌が痺れる。半夏、シャクナゲもまた末梢神経を麻痺させる薬だ。整骨麻薬の中にも多くの毒薬が含まれている。例えば、川烏、草烏、がまの油、さらには胡椒、生半夏及び天南星などだ。清朝『医宗金鑑・外科心法』によると、「がま油散」があり、「整骨麻薬」には外に塗布する麻酔薬があり、それらは皆人を麻痺させて、痛みを覚えさせないものだ。また、『傷科大成』には、麻酔薬を解除する方法が記載されている。「甘草湯」を服用すると、すぐさまに覚醒するというので、古人は麻酔薬を使っていた頃から、すでにその効果を解除する方法も知っていた。

 『後漢書・方術列伝』の記載では、華佗が用いた薬物はただ数種で、そのうえ、薬を調合する際には、処方箋を見ることもなく、手で捏ねているうちに大概の分量を知っていたという。鍼灸も数か所だけで、鍼灸と薬で治らない場合には、麻酔薬を用いて外科手術を行い、病人の背中や腹を切り裂き、その病根を取り除いて治した。その後に、ハリと糸とで傷口を縫い合わせ、更に膏薬を貼りつけた。4-5日で傷口は回復した。それゆえ、華佗は外科の開祖といわれている。

 西洋医学の歴史上で記載されている外科は、1363年に出現したもので、これに比べて華佗の外科医術は、約1000年も早く、中国医学は早くから発達していたといえよう。

(『中医養生 受益一生』から抜粋)

(翻訳・太源)

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