英国バイリンガル子育て奮闘記(80)日本からのお客さん (上)(2001年夏)

【大紀元日本3月28日】娘が中学に入った頃、2歳年上のいとこがおばあちゃんに連れられてコーンウォ−ルに一夏、遊びに来た。私の姉の魂胆は、英国に送り込めば英語のひとつやふたつ、学んでくれるだろうというものだったが、娘の方はそんなことは全く知らず、日本から日本語しか分からない家族が二人やって来た。さあ、大変。限られた日本語を120%振り絞って、朝から晩までいとこと同じ部屋で、日本語で考えまくっていた。

セント・アイブスの観光地でお店を見ている時、娘が私に向かって、「あそこに黄色い看板で黒の文字が入ったお店があるでしょ。あの中にいるからね」と一生懸命説明する。「なんでお店の名前言わないの?」と尋ねたら、「あ、お母さん、英語分かるんだった」とホッとした様子。とにかく娘の献身ぶりがよく分かった。

しかし、いとこの方は、夏休みの宿題を持ち込んでの旅行だったため、せっかくコーンウォールまで来て、日本的英語の発想から抜け出せない状態だった。関係代名詞でthatを入れるかwhichを入れるかなどの質問は、私はうまく応えられなかった。イギリス英語では、thatはあまり利用しないからだ。そういえば、こういう決まりを中学で学んだっけ、と懐かしく眺める程度だった。

どちらかというと和食好みの彼女は、「白いご飯たべたーい」という感じで、日本では好き嫌いはあまりなかったが、英国では結構選んで物を食べていた。

ある夜、夫が外に出る用事があり、私と母と娘と娘のいとこの四人だけの食事をとった。言葉を変える必要もなく、あたりをはばからずに、120%日本人をさせてもらった。 私に育てられた娘の日本語は、母の日本語にとても近く、現代の日本の中学で生活している娘のいとこの日本語と感覚が違い、いとこだけが、「何で私だけ日本語がわからないの?」と不思議がり、 皆で大声で笑い転げた。

同時に、家族で移民した場合は、国際結婚と違い、自分の慣れ親しんだ文化をそのまま異国に持ち込めるんだ、なんて楽なんだろうと実感した。その代わり、現地社会とは隔離されており、現地校に通学する子どもの肩に負担はかかるのだが。

知らず知らず、私は夫に合わせてかなり英国化していたということに気付かされた。

(続く)

著者プロフィール

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。