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パリ・ルーブル美術館に展示されているニコラ・プッサンの名画『エジプトへの逃避』(AFP)

本来の姿を見失った現代芸術

作・斉先矛

 【大紀元日本8月17日】新唐人テレビ局が主催する「九大グローバルコンテスト」の趣旨は、「純真、純善、純美の正統な芸術理念を発揚する」ことであるが、現代芸術を好む人にとっては、なぜ現代芸術の発展ではなく、伝統の復興を呼びかけているのか、理解できないかもしれない。

 油絵コンテストでは、抽象派や印象派の作品ではなく、正統な写実技法の作品が求められており、声楽コンテストが求めるのも、民族唱法とベルカント唱法であって、通俗唱法は含まれない。ヴァイオリンとピアノのコンテストに参加する曲も全てクラシックでなければならないし、中国舞踊コンテストの「舞踊」とは古典舞踊を指す。武術も新武術ではなく、伝統武術のコンテストであり、服装デザインコンテストも古代漢民族の伝統服のデザインを競うし、撮影コンテストも伝統美学を復興するという理念が求められている。

 ではなぜ、現代芸術は新唐人の舞台に上れないのか。これは道徳理念に対する認識に関係する。人類数千年の正統な文化芸術の中では、東洋、西洋とも神を敬い徳を重んじてきた。人類の芸術は、神に対する称賛と敬慕に起源を持ち、舞踊、絵画、音楽、服装、礼儀、飲食、どれをとっても、神を祭る儀式において現れた。人類の芸術が描いている主体は当初、神の偉大さを称え、神の庇護に感謝することであった。後に、「天、地、人」への分化に伴って、芸術が天上の神から次第に地上の風景や人間世界の人物へと発展してきたのである。

 正統芸術の創作者は、人の善念と正念を持って作品の創作にあたるため、彼らが表現するのは、美しさ、純正、善良、光明である。よって、それらの作品が人々にもたらすものは、純真、純善、純美の感覚であって、それが人々の善念を呼び起こす。

 しかし、現代、人類道徳の退廃につれ、芸術に反映されるのは反伝統、反人間性の現代派芸術である。その創作者は、人間の本来持つ正念に従うのではなく、表面的な観念、意識、感受性のなすがままに自らを導く。そこには冷静な思考もなく、ただ無意識に一切をコントロールされるだけである。そのような状況で生まれたものは、体系をなさず、不規則、不連続で、規範も正念も魂もない、いわゆる現代作品となる。

 こういった理性のない放縦が続けば、人間性の暗の一面にコントロールされ、最後には魔性の大いに現れた邪悪の表現へと堕落し、芸術の主体を、神の謳歌から魔物の表現へと変えてしまう。これは疑いなく、芸術の堕落であり、人類の悲哀である。

 芸術の堕落 ゴミが宝に

 現在、人類の芸術の退廃は各方面に現れている。例えば、絵画、彫刻、撮影等の美術の領域では、西洋で相次いで表現主義、野獣派、立体主義、未来主義、超現実主義などの流派が現れた。それらの印象派と抽象派のものを冷静に見てみると、いずれも人の主意識を放棄し、表面の観念に任せて創られたものばかりである。これらのものが、人類の最高峰の完璧な西洋芸術をほとんど破壊してしまった。

 ゴッホの絵を例にとるなら、彼は、ひまわりの色彩、透視、形体、比率を変えてしまい、その極度に苦痛な感情を表現した。『夜の喫茶店』では、深緑の天井板、真っ赤な壁と不調和な緑色の家具が、夢にうなされているような画面を構成している。金色に輝く床が縦方向の透視を呈し、信じ難い力が赤色のバックに入り、その結果、見る人に幽閉、恐怖、圧迫といった恐ろしい体験を与える。また、『星の夜』は、まるで地獄絵図の再現である。こういった理性に反する幻像を描くということは、正に、彼の主意識が喪失され、外来のものに人体をコントロールされ、その結果精神に異常をきたした結果である。

 
ゴッホ『星の夜』はまるで地獄絵図の再現であり、見る人にマイナスの情緒をもたらす。(Getty Images)

この「私は聖霊である」と自称した人物は、絵の訓練も受けたことがなく、ただ精神病者が思うがままに塗りたくっただけなのに、その作品が一枚8千250万ドルの高値で売れる。2004年5月、オークション記録を塗り替えたのは、ピカソの早期の作品『パイプを持つ少年』で、5億ドルで取引された。ただ、ピカソの後期に創られた、鼻が曲がり、顔が半分だけで、片方の足が後ろに付き、両目が前に寄った「怪物」も、依然人々に好まれている。これは人々の道徳観念がひっくり返っているとしか言えない。醜いものが美しいと見なされ、ゴミが宝となっているのである。

 近年中国に現れた「パフォーマンス・アーティスト」には、さらに驚かされる。「烙印」(焼きごてで自分の背中に身分証の番号を烙印する)から「流血」(3人が腕に注射針を刺し、血を流しながらタバコを吸い酒を飲みゲームを遊ぶ)まで、魔性が変異した人たちがこのように人類の霊を冒涜している。

 「溺音淫楽」が世に氾濫

 歌にしても同じで、今はしばしば、数千数万人が耳をつんざくような大音響のコンサートを楽しんでいる光景をよく目にする。いわゆるスターがしわがれた声でヒステリックにわめき叫び、聴衆が狂ったように一緒になって叫び踊る。しかし、歌手というものは自分の声を美しく飾り、発声方法を大切にしなければならない。通俗唱法は庶民の小唄にすぎず、何の歌唱技能も必要としない。しかし、近年、現代派が誇張されることによって、多くの流行歌が低俗で、魔性の発散の現れであり、さらには下品なものになった。古代に言うところの「溺音淫楽」(堕落した音楽)である。

 春秋時代の魏の文侯が孔子の弟子・子夏に、「昔の音楽と今の音楽はどこが違うか」とたずねたところ、子夏はこう答えた。「昔の音楽は黄帝、尭・舜以来、聖賢が伝えてきた雅楽であり、リズムは穏やかで荘厳で、示唆に富んでいた。君子はそれを聴くと、その音楽の道理を語り、徳を以って天を敬い、身を修めて国を治め天下を治める。ところが、今の音楽は、「溺音」と称するしかない。雑然とし、種々の物欲を満たすための熱狂を表現し、それを聴くと、退廃的で横暴な感じを抱かせる。内に込められた趣きは何もない。多くは、君臣を乱す作品であり、完全に徳治の精神に反している。それは、徳に害を及ぼし、「楽」と称することはできない」

 中国の古人は、音楽の道徳に対する教化作用を重んじてきた。『礼記・楽記』に「徳は性の始まりなり、楽は徳の華なり」とある。孔子は、「社会の風紀を変えるには、音楽に勝るものはなく、一国の民を治めるには、礼法に勝るものなし」と説いた。彼は、音楽の思想性と芸術性は「善」と「美」に表現されると考えた。そして、音楽は、人類社会の一切の規範となり、人心を善に向かわせ、世風を純化しうる、そうすれば、社会が長久に安定すると信じた。

 現在、多くの若者が狂ったように歌い踊ることを追い求めているが、それは決して人類の本来あるべき正常な状態ではない。人は穏やかな心を保っていなければならない。現代音楽の中のそういった理性を失った激情は、実は人間性の負の一面にある悪をかきたてているのである。人は穏やかな状態にあってはじめて善であり、それこそが正常な状態である。もちろん、穏やかな中にも高揚があり、輝きの現れがあるが、それは理性的な善良な美しいものである。

 本来あるべき姿を見失った現代芸術が氾濫する中、新唐人が一連のグローバルコンテストを行う。それは正に、長い旱魃に恵みをもたらす慈雨であり、人々の心底にかすかに残る記憶を呼び戻してくれることであろう。

 (08/08/17 00:00)  





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