THE EPOCH TIMES

四川省・北川県の清明節、地震犠牲者へ10万人が追悼

2009年04月06日 07時35分
 【大紀元日本4月6日】昨年5月12日に中国・四川省で発生した大地震は、膨大な数の犠牲者と、家屋や生業を失った生活困窮者を生み出した。この大地震による被害は、死者7万、行方不明者数万、家屋を失った人は数百万とも言われるが、その実態はいまだに明らかになっていない。今年4月4日、中国は四川大地震後初めての清明節を迎えた。祖先を祭り、死者の魂が帰ってくるという節句にあたり、被災地は再び深い悲しみに包まれている。四川省のなかでも特に被害が甚大であった北川県で、肉親や級友を亡くした人々の、未だに癒されることのない悲しみを見た。

 地震当時のままの壊滅状態が続く北川県の市内は、通常は鉄柵で閉ざされているため入ることができない。その北川県で、清明節の4月4日より4日間、犠牲者の追悼のため特別に鉄柵が開かれた。多くの人が訪れた初日の4日には、午後4時になっても、まだ鉄柵の外には入るのを待つ人々が列をなしていた。この日、北川県の市内へ追悼に訪れた人数は約10万人という。

 街中へ入った人々は、花を手にそれぞれの悲しみの場所へ向かい、声を上げて泣いた。

 南方都市報によると、北川県の毛●(土偏に貝)中学近くに建立された地震記念碑の背後には、新しく整えられた平地が広がっている。そこは多数の犠牲者が最後に埋葬された場所で、約300人の毛●中学の生徒と教師が地下に眠っている。地震発生時、1本の旗竿と、バスケットボールのネット一基を残して、毛●中学は全壊したという。

 粉々に砕けた建物の前で、彭盛才さんとその末弟は、蝋燭に灯をともし焼香していた。「これは3番目の兄に。これは……に」と呟きながら、死者に手向ける紙銭を焼く。彭盛才さんは、5人兄弟の4番目に当たる。彭さんの身内で最も不幸だったのは3番目の兄である彭勝寛さんで、その家族のうち1人を除いて全員が亡くなった。北川県国土局の局長であった彭勝寛さんとその家族は、地震発生時、国土局の宿舎にいたが、6階建ての宿舎が3階の高さにまでつぶれて犠牲になったという。

 林樹群さんは、地震で亡くなった娘に会いに来た。「娘は今年14歳になります」という彼女は、自分の胸のなかで娘は生き続けているのだという。彼女の前から「去って」いった時の娘は13歳。娘を亡くし、家も畑も無くして、悲しみと絶望に打ちひしがれた彼女であったが、今では強く生きていくことを学んだという。「嫌でも月日は過ぎていくんですからね、自分にできることから、やっていかなくては」

 愛する人々を失った悲しみは、1年を経た今も尽きることはない。しかし、被災地の人々は、生きていかなければならないという現実のなかで、必死に今日を生きている。

 清明節の被災地では、まさに死者との深い対話が続けられていた。
亡くなった級友を悼む同級生たち(大紀元資料室)


廃墟となった学校で、我が子の死を悼む親(大紀元資料室)


倒壊した学校を訪れ、亡くなった子を悼む親たち(大紀元資料室)


多くの北川の住民が、かつての我が家へ追悼に向かった(大紀元資料室)


かつての我が家を訪れて(大紀元資料室)


「お父さん、お母さん」と亡くなった両親に呼びかける子(大紀元資料室)



 
(翻訳編集・牧)


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