THE EPOCH TIMES

高智晟著『神とともに戦う』(14) 我が平民の母(3)

2009年12月15日 13時29分
 【大紀元日本12月15日】母は、先々まで見通すことのできる人だった。このおかげで、今日の私たちが存在する、あらゆる基礎が築けた。母は、長男と姉以外、すべての子を学校に行かせることに決めた。母のこの決意は、途方もない夢物語に近かった。しかし後に、次男以下みなそろって中学校を卒業したのである。この中学校で学んだ経験は、私たちそれぞれの運命を変えるのに欠かせない条件であった。物事の分かる歳になっていた次男は母を気遣い、中学進学を堅く拒んだ。だが、母のこの決定には相談の余地はなかった。この2番目の兄は極貧の逆境の中、中学を無事卒業した。このことは、この兄が後に軍隊に入り、また先々の道を切り開くために、極めて大きな意義があったのである。

 子ども達の中で、とりわけ私の勉強のために、母は大変な犠牲を払った。私は小学校の頃から、基本的にほぼ「独学状態」だった。これは、貧しさ以外にも理由があった。父が他界した翌年から毎年、私と10歳の弟が、我が家のその年の前半の生命線を守ることになったからである。私は弟と、朝から晩まで生薬の材料を採り続けた。毎日昼間、酷暑の中、多くの危険を冒して生薬の材料を掘りに行った。伸ばした手の指先すら見えないほど暗くなってから、空腹でまともに立つのもままならない私たちは、ようやく洞窟に戻った。そして、栄養など一切ないお粥をすすると、倒れこむようにして眠りに就いた。ここで、母のもう1つの労働が始まる。母は、ほぼ徹夜で、私たちが持ち帰った生薬の材料を麺棒でつぶしてから長方形に固め、根筋を抜いて、それを1本ずつ並べた。夜が明けたら、日干しするためである。

 このように私、弟、そして母の協力の下、掘って来た生薬の材料を高粱(コーリャン)に換えて命をつなぐ作業は、1977年まで続いた。変わることのなかったのは、10日に1度の市である。日干し済みの生薬は、10日間で大体10斤(1斤は約500g)余りだった。だが、最も多くても11斤を超えることはなかった。1斤当たり1・2元なので、12元以上の現金が手に入った。殻つきの高粱は、1斤当たり0・25元。だから、生薬を売ると真っ先に、その内の10元を40斤の高粱に換えた。これが、この後10日間の我が家の食料の全てになる。毎回余った2元ほどで、塩や灯油を買い求めた。秋、生薬の材料を掘れない時、母は私たちに、収穫後の田畑や道端に落ちている穀物を拾うよう教えた。大体2カ月近くは、このように穀物を拾った。このおかげで、1年のうち2カ月は食糧ゼロの危機を免れたのである。

 (続く)

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