肩の荷は降ろさない

なぜ、は人間に苦難をお与えになったのか。そのご意思を理解することはできないが、苦難にも意味があるのだと先日、ある物語が教えてくれた。

昔、神は人間を創造した。神は人間に十字架を背負わせ、聖なる地に導くことにした。その旅は長く険しかったが、人間が天国へ行くために神が定めた道のりだった。

あるとき、一人の男が旅の途中で立ち止まった。「ああ、この十字架はとても重い。まだどのくらいこれを担いで行かなければならないのか?」男に疑問が生じた。

そこで、男は背負っている十字架を少し切り取った。すると、十字架の重さは少し軽くなり、旅路はちょっと楽になった。男はまたしばらくすると、十字架を切り取り、旅路の苦労を減らした。男は旅を続けながら、十字架を少しずつ切り取り、他の人に追いついた。

男はだいぶ十字架を切り取ったが、それでも満足せず、神と交渉することにした。「神よ、もっと十字架を切り取ってもいいでしょうか? そうすれば、より早く進むことができます」

神は答えなかったが、男は十字架の大部分を切り取ってしまった。他の人は重い十字架を背負いながら、ゆっくりと前へ進んでいる。一方、男の十字架は軽く、足取りも軽やかに一番先頭を歩いた。

ある日、男の目の前に深い谷が現れた。そこには橋も道もない。どうやってその谷間を渡ればいいのだろうか?

男が困惑していると、重い十字架を背負った人間たちが男に追いついてきた。彼らは背中の十字架を降ろすと、それを谷間にかけ、橋にして渡って行った。

男も同じように谷間を渡りたかったが、彼の十字架は短すぎてできなかった。谷間を渡った人間たちはしばらく旅を続け、ようやく聖なる地に到着した。

男は泣きながら、谷間の前で座り込んだ。「私にも長い十字架があったのに、それを大事にしなかった。神の意思に従わず、自分の安逸だけを求めた結果だ。私にとって最も大切なものを失ってしまった。もう私は、聖なる地へたどりつけない。こんなに辛いことが他にあるだろうか!」

神の意思に従っていれば、どんな目の前のトラブルも、苦難も乗り越えられる。しかし、もし怠け心や安逸の心が生じ、神の意思に従うことができなければ、その先には進むべき道がない。神の意思を推し量ることなど、人間にはとうてい無理な話である。
 

(翻訳編集・郭丹丹)