北宋名将 張永徳の奇縁(1)

張永徳(928-1000年、字抱一)は、并州陽曲(現在の山西省太原市付近)人で、北漢、南唐、契丹との戦争に参戦し功績を立て、五代から北宋初期まで活躍した名将でした。

北宋太宗は張永徳に節度使(古代中国官職の名)を授けた後、鄧国公と名付け、3代皇帝、真宗は彼が亡くなった時、魏国公と賜い、盛大な葬式が行いました。
 

だらしなく汚いふりを身なりで災害を回避する

張永徳は豊かな家庭に生まれました。 曽祖父の張丕は誠実で、村の人々は張丕の義の行いを賞賛しました。張永徳の父・張頴は、後晋朝の安州防御使を務めていました。

五代後周の太祖、郭威がまだ侍衛吏だった頃、張頴と親友となり、4人目の娘(寿安姫)を張永徳の嫁にしました。

張永徳は母と妻を宋州(河南省商丘周辺)に迎えました。 その頃は戦乱の時代で、辺りは盗賊や泥棒だらけでした。 そのような中で張永徳はぼろぼろの服を着て、身なりをだらしなく汚くして、路地に住んでいました。人々は彼らの出身地を知らず、よその場所からの難民だと思っていました。張永徳は泥棒にあった時、物乞いのふりをして被害を回避しました。

意外な再会 

張永徳はだんだん軍功を立て始めました。郭威が枢密使として宋州に立ち寄った時、人々は葛驛で軍隊をねぎらっていました。その時偶然にも、嫁いだ郭威の4番目の娘がその群衆の中にいました。

郭威は娘と婿を連れて、一緒に軍に戻り、婿の張永徳を供奉官の役職に就かせました。 その後、張永徳は郭威と共に何度も軍功を立てました。

その後、郭威は後周の太祖として帝位に就き、張永徳を駙馬都尉(皇帝の伴走車の馬を司る職)に任じました。後継者の周世宗柴荣(周太祖郭威の養子)が在位中、張永徳は軍隊と共に北漢と南唐に出征しました。 高平の戦いでは、趙匡胤と協力し北漢軍に勝利し、多大な貢献で昇進しました。

周世宗、柴栄は契丹への攻撃から戻る途中、葦の袋の中に「点検は天子になる」と書かれた木の板を見付けました。すると張栄徳の点検職を免除し、趙匡胤を殿禁軍統帥に任命しました。

(翻訳・李明月)