THE EPOCH TIMES

高智晟著『神とともに戦う』(24)どの案件もはらむ制度問題(2)

2010年03月14日 09時57分
 【大紀元日本3月14日】

 強制立ち退き裁判は完敗!

 私が手がけた強制立ち退きの裁判は100戦100敗、つまり100%の負けである。この数字は政府の公式統計ではないので、絶対に正確だといえる。例えば、広州の「大学都市」(訳注、政府が各大学を一箇所に集中させて造った都市)では、70件の立ち退き案件の代理弁護をしたが、70件とも立ち退きの憂き目から逃れられなかった。水星ダムの野蛮な立ち退きは、なおさら取り上げるまでもない。ああ、あのブルドーザーの何と勇壮なことよ。

 法に背く、この種の露骨な案件において、勝訴どころか提訴すら出来ないのはなぜか。それは、立ち退きは現在の中国において、2つの最大勢力にとって必要だからである。1つは不動産業者。そしてもう1つは、不動産業者の手先になっている各レベルの政府官僚である。彼らは一切の法律の制約を受けない、いわば法律上の怪物といえよう。このような裁判に、勝てるはずがあろうか。

 今年の元旦も、中国中央テレビ(中国の国営テレビ)は政府を称えるシリーズ番組『同一首歌』を流した。その中で、広州におけるこの1年について、彼らにとって「誇らしい」功績には触れもせず、よりによってわざわざ「広州の大学都市」を取り上げた。しかも、数多くの映像付きであった。

 私は中央テレビを見ない。だが子供が見る時は、どうしても私の耳にも入ってしまう。そして、このことを耳にした時、私は思わず苦笑した。これはまるで、北京の「南池改造計画」をメディアが大々的に好意的な報道をした時のようだ。だが、現在多くの国民は基本的な判断能力を持っている。およそ地元官僚が躍起になって表彰し、その宣伝に力を注ぐような場合、この裏には良からぬ企みがある。彼らは、自ら制定した法律など犬の糞と見なしているが、文明社会の共通認識は、永遠に変えることは出来ないのだ。

 「特殊」な案件

 数年前まで、私は基本的にほとんど、法輪功の案件を手がけなかった。なぜなら、「関係部門はこの件に弁護士を関与させない」ことは、どの弁護士も重々承知であるからだ。このような文書を実際に見た者がいるかどうかを確かめる必要はない。弁護士の関与を禁ずる決定および精神が存在するのかどうかを疑う必要もない。必ず存在するのである。

 気軽に、弁護士へ尋ねてみるとよい。相手は恐らく「1999年には確かにその、弁護士も見たことがない『もの』があった」と答えるに違いない。誰も見たことがない、という点において、当局にはまた別のメリットもある。つまり時期を見計らって、いわゆる「デマ」だと釈明することができるほか、それを言う市民に対し「党や政府を悪意で攻撃し、侮辱する者」というレッテルを貼ることもできるからである。

 いわゆる「胡錦濤・温家宝新体制」に移って以来、相当多くの人が奇妙な考えを持つようになったと言わねばならない。つまり、江沢民時代とは異なる、といった考え方である。2003年の7月以降、数多くの法輪功学習者、またはその家族の手紙を私は受け取った。これらの手紙と彼らの訪問を受けたことが、私を法輪功の問題に注目させ始めたのである。

 これは調べてみなければ決して分からない。だが一旦調べると、その驚愕の事実にただ驚くばかりだった。ひいては2004年末、自ら「石家荘(せっかそう)の黄偉事件」を手がけた際、これまで耳にしていたうわさを直に体感してから、法輪功問題の恐怖がどこに存在するのかを感じ取ることになった。つまり、「610弁公室」というシステム全体が法律の枠外で、すべてをコントロールしているのである。通常、一般の案件において、私は助手に提訴への手続きをさせている。だが、法輪功は「特殊」な案件に属するので、私は助手と石家荘へ向かうことにした。そこで私たちは3か所の裁判所を回ったが、その内2か所は、提訴を申請しようとするとこんな3つの答えが返ってきた:1、法輪功の案件に関する提訴は許さない。2、いかなる法律文書も出さない、つまり原告が司法に対して責任追及することを許さない。3、その根拠を弁護士に告げない。3か所目の裁判所は、この3つに加え、こう言い放った。「君のようにやるのは危険だ。このまま続けるのなら、我々は司法提案書を作成し、君らを処理しなければならなくなるぞ」

 何と馬鹿げたことか。弁護士が国法の有効性を体現しようと努力すると、危険になってしまうとは。一方、違法に国を乱す者たちが道義の高台に立ち、こちらを処罰するというのである。

 今日に至るまで、黄偉の訴訟のため、懸命な努力がずっと続いている。私は裁判所に、黄偉の訴状を速達で送った。彼らには「人類文明の理性と人への尊重」という立場で、問題を討議してほしかったからである。そして最後、私はこう結んだ。「もし、貴方が今後も中国国法の有効性を敵と見なし、不法に訴状を受理しないのなら、私どもは『違憲審査』を申請する予定です」

 これと同時に、私は「全国人民代表大会に対する公開状」を送った。当局がその権力によって、この不法に公民の権利と公民の自由を奪っている暴虐行為に介入してほしい。そんな願いを込めたのである。

 1人の弁護士が、ルールや法律の枠外のルートで、当事者の合法的な利益を守ろうとする。このような弁護士の苦しみが、一体誰に理解されるというのだろう。だが、これもやむにやまれぬ選択だ。でなければ、どうすればよいのか。

 今日もある友人に「君はなぜ黄偉の案件を受けたのか」と聞かれた。我が党は一貫して、「実事求是」(訳注、事実に基づいて真実を求めること。原語は清代からあるが、後に毛沢東が政治スローガンとして提唱した)と我々を教育してきたではないか。もし私は何ら案ずるところはない、と言えば嘘になる。不安は絶対にある。

 ほかの事はここで取り上げないが、この1年、関係部門から受けた「親切な交流(呼び出し)」は、全く数え切れないほどだ。弁護士として私は痛いほど分かっている。中国における権力のつかわれ方はゆがんでいるだけでなく、チンピラよりも性質が悪いのだ。いつでも情に任せた判断により、人を投獄してしまう。だが、多くのことは戦いが必要なのだ。

 文化大革命の頃、私のような者はたちまち頭をぶち抜かれたに違いない。ではなぜ今、彼らはそうしようとしないのか。権力者の価値観が変わったとか、彼らに進歩が見られたなどと、勘違いしてはならない。これは全て、人々が文明の闘争によって勝ち得た彼らの譲歩なのだ。時には、この自由の闘争のため多くの命すら犠牲となったために、彼らも譲歩せざるを得なくなったのである。

 法輪功の問題で、もし全ての国民が見て見ぬふりを決め込むのであれば、その恥辱と道義の重荷をいつまで背負うことになるか。もし全ての弁護士が口をつぐむのであれば、将来弁護士はこの問題において、どんな顔で歴史と向き合うというのか。私に自由がある限り、黄偉の案件は闘い続けるつもりだ。

 (続き)

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