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歌川広重【名所江戸百景】高輪・牛町(ウィキペディアより)

【今に伝える江戸百景】 東京に海があった頃

 【大紀元日本7月26日】歌川広重の『名所江戸百景』に、「高輪・牛まち」と題された一枚がある。

 高輪(たかなわ)は、品川近くの現在の地名にも残されているので、なんとか見当がつくが、牛町の名はついに地図からは見つけられなかった。その旧地名を知る人は、おそらく地元にもいないだろう。

 広重の浮世絵はいずれも秀作であるが、この「高輪・牛まち」もまた見事な作品である。のどかな夏の海辺の風景。地面に捨てられた西瓜の皮、大八車の車輪、そして空高くかかる虹の輪という、大小三種の曲線からなる構図の中に、手前には子犬、遠景の海上には帆を張った舟が配置されている。それが有機的に働きあって、まさに生きた絵になっているではないか。

 それにしても江戸の頃の高輪には、こんなに青い海があったのか。沖合いの舟は魚を獲る漁師の舟のようだ。

 江戸っ子は無類の魚好きだったという。天保年間の1831年に書かれた『魚鑑(うおかがみ)』という書物には、全国各地から様々な種類の魚介が日本橋の魚河岸へ届けられていたことが記されている。

 とは言え、氷も冷蔵設備もない当時、例えば外洋の魚であるカツオを、できるだけ鮮度を落とさずに銚子から江戸へ急送するのは至難のことであったに違いない。逆に考えれば、それだけの対価を払ってでも口にしたかった江戸っ子の気持ちが窺われる。「女房を質に入れても」は、そのあたりの心理を表現したもので、決して奥方を軽んじたのではないと言い訳しておこう。

 もちろん庶民は、高価なカツオではなく、江戸前の海で獲れる安い魚を食べていた。夏場は、やはり鮮度保持の問題があるので、1日に2回(通常は1回)魚河岸が開かれる。そこで仕入れた新鮮な魚を、威勢のいい棒手振り(ぼてふり)の魚屋が得意先のルートを回って、とにかく魚の目が死なないうちに売り切ってしまうのだ。

 思いを巡らせていたら、ふと東京の海が今どうなっているか見たくなった。もともと江戸は、日比谷入り江と言われるほど海が内陸まで伸びていた土地であったが、今の東京は海などどこへ行ったやら。私の意識からも、海は遥か遠くなっていたようだ。

 梅雨明けの暑い日。品川駅から東に向かって20分ばかり歩き、運河を一つ越えた。埋立地に挟まれた運河の水は、目を逸らしたくなるような色をして澱んでいる。
 そのすぐそばに、この地にあった東京水産大学が、江東区越中島の東京商船大学と03年に統合して開学した東京海洋大学の品川キャンパスがある。守衛の人に聞くと自由に見学できるそうなので、校内に入らせてもらった。

 試験も終わり、スポーツをする学生以外に人気のない静かなキャンパス。その片隅に、かつて多くの実習生を乗せて外洋航海をした3本マストの帆船が、今は陸上に置かれて展示されていた。船名は雲鷹丸(うんようまる)。全長41メートル、総トン数444トンで1909年から約20年間活躍したという。海から遠くなった白い帆船と、しばし静かな対話をした。

 キャンパス内の岸壁を歩く。対岸には巨大な倉庫。足下の運河の水は茶色く濁っている。生き物がいるような水には見えず、立ち去ろうとしたとき、茶色の水面に良型のボラが跳ねた。東京の海から声をかけられたような気がした。
海洋大キャンパス内に展示されている雲鷹丸(船尾方向)(大紀元)
東京港・竹芝埠頭よりレインボーブリッジを望む(大紀元)


※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。目録表紙と118枚の図絵(二代目広重の1枚も加えると119枚)からなる。

(牧)


 (10/07/26 07:00)  





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