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歌川広重【名所江戸百景】昌平坂、聖堂、神田川(ウィキペディアより)

【今に伝える江戸百景】 二つの聖堂 静かなる修養と祈り

 【大紀元日本7月12日】二代将軍・徳川秀忠の頃、江戸城の北側を護る外堀とするため、今日でいうJR水道橋駅から御茶ノ水駅にかけての駿河台を切り抜いて、人工の「谷」を造った。

 その谷間を流れる水が、やがてその流域の上下まで含めて神田川と呼ばれる水流になるわけだが、今その場所に立ってみて、四百年前の日本人が行なった土木工事の巨大さに、改めて驚嘆させられた。

 江戸末期の浮世絵師・歌川広重の『名所江戸百景』に、ちょうどこの辺りを描いた一枚がある。

 「昌平橋、聖堂、神田川」と題されたその絵は、御茶ノ水側(南岸)のやや下流から、対岸にある湯島聖堂を遠望した構図である。両岸の急斜面に挟まれた神田川には、舟が行き交っている。その様子からしても「谷底」は決して浅くなく、川幅もそれなりに広い。

 この駿河台掘削で出た大量の石や土は、江戸城の増築に使われたという。それにしても、広重から250年前の江戸初期に、高台を切り開いて水路を通した当時の苦労は、浮世絵からも十分に想像できる。なお昌平とは、紀元前551年に孔子が生まれた魯国の昌平郷にちなんだものであり、昌平橋という名は坂を下った秋葉原近くの橋の名に現存している。

 今日の御茶ノ水駅のすぐ近く、聖橋(ひじりばし)というアーチ橋が、神田川を高々と跨ぐようにかかっている。橋を北へ渡ったところには湯島聖堂、南にはニコライ堂の通称で知られる東京復活大聖堂がある。昭和2年の橋の完成時に名前を公募したところ、南北二つの聖堂を結んでいるところから聖橋と命名された。

 湯島聖堂は、儒学者・林羅山が上野の私邸内に建てた孔子廟「先聖殿」を元禄3年(1690年)に移築し、五代将軍・徳川綱吉がこれを「大成殿」と改称したことに始まる。

 約百年後の寛政9年(1797年)には、林家の私塾であった同施設を幕府の官立学校である昌平坂学問所(昌平黌)とし、儒学を中心とする学問のほか医学や天文学なども併せた「総合大学」として昌平坂の名は全国に広まった。以来、明治維新を迎えるまで、徳川幕府の基盤である儒学(朱子学)の最高研究機関として屹立し続けた。

 7年の歳月をかけ1891年に竣工されたニコライ堂は、ジョサイア・コンドル博士らの設計による日本有数のビザンティン様式の教会建築で、1961年に国の重要文化財に指定されている。

 荘厳な空気のドーム天井の下で、両手を組み、静かに祈り続ける日本人の女性がいた。

 何を祈っているかは分からない。ただ、真摯な祈りの妨げにならぬよう、またその祈りの何分の一かでも叶うことを私も祈りながら、見知らぬ女性の傍らを足音を立てずに離れた。 二つの聖堂は、今もなお静謐のなかにあった。
ゆるやかな相生坂。塀の向こうが湯島聖堂(写真・大紀元)
昭和10年に再建された湯島聖堂・大成殿(写真・大紀元)
ビザンティン様式の教会・ニコライ堂 (写真・大紀元)
二つの聖堂を結ぶアーチ型の聖橋(写真・大紀元) 


 ※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。目録表紙と118枚の図絵(二代目広重の1枚も加えると119枚)からなる。

(牧)


 (10/07/12 07:00)  





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