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歌川広重【名所江戸百景】井の頭池・弁天社(ウィキペディアより)

【今に伝える江戸百景】都会のなかの森と水 井の頭公園

 【大紀元日本9月7日】残暑厳しい8月の末、水と木陰のある武蔵野の風景を求めて、都心から少し足を伸ばしてみた。とは言え、新宿駅から吉祥寺駅までは中央線でわずか十数分。その吉祥寺駅から徒歩5分で、武蔵野の自然がそこだけ切りとって残されたような井の頭公園(正式名、井の頭恩賜公園)へ着く。

 照りつける日差しから逃げて入った木陰が、涼しく心地よい。ゆるやかな時間とともに、池に浮かぶボートが水面を滑る。

 よく知られたことだが、吉祥寺にほど近い三鷹の地名は、徳川の歴代将軍がこの一帯で鷹狩りを催したことに由来する。江戸時代の初めの頃までは、この辺りには雑木林と未開の原野が広がり、鹿や猪などの大型獣もいたらしい。

 江戸末期になると開墾や新田開発が進み、さすがに原始のままの森林というわけにはいかなくなったが、それでも豊かな湧水に恵まれたこの地は、徳川時代を通じて江戸の貴重な水源の一つとして親しまれた。

 歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』のなかに「井の頭池・弁天社」と題された一枚がある。

 構図の奥まで広がる青々とした水の風景。その上を飛ぶのは、数羽の鷺であろうか。手前の左下には、平安時代の中頃、六孫王経基が最澄の作による弁才天像を安置するためにこの地に建立した堂を起源にもつという、井の頭弁天社が描かれている。

 鎌倉時代の末期に焼失したこの社を再建したのは、三代将軍・家光であった。また、井の頭という名称も、家光が名づけたと伝えられている。以来、江戸の町衆が参拝も兼ねてよく訪れる格好の行楽地となった。

 なぜ徳川将軍がこの地を重んじ、また庶民の信仰の対象としたかと想像するのだが、やはり大都市・江戸を経営し発展させるには、良質の水が得られる水源を何よりも必要とする為政者の発想があったからであろう。この井の頭池から、江戸の町へ水を供給する神田上水、すなわち神田川が始まる。

 さて、今日の井の頭池の水はどうか。残暑の厳しさもあって水温は高く、緑色に濁った水面に鯉が苦しそうに口をあけているように見える。とても浮世絵のような青く澄んだ水には見えない。

 東京都が水質改善に力を入れているとはいえ、公園の周囲は全て住宅地なので、生活廃水のもたらす汚染も避けがたいことを公園内の説明プレートが伝えている。

 水は、ありがたい。飲用としてばかりではなく、人間がそれを見て心を静める対象としても、水の存在は不可欠のものであろう。ならば万物に感謝する謙虚さへの第一歩として、私たちは水への思いを今一度深めてみてはどうか。

 人間と水との縁は、小銭を自販機へ投げ入れてペットボトルを求める感覚からは、おそらく想像のつかないところにある。

 江戸時代の人々に我たちが学びたいのは、例えばこのようなことである。
平安時代から伝わるという井の頭弁天社(大紀元)
井の頭池の流水口は、都心へ流れる神田川の始まり(大紀元)
鷹狩に来た徳川家康が茶を点てたという湧水(大紀元)
森と水の公園で、暫し都会の雑踏を忘れる(大紀元)


 ※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。目録表紙と117枚の図絵(二代目広重の2枚も加えると119枚)からなる。


(牧)

 (10/09/07 07:00)  





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