THE EPOCH TIMES

英国バイリンガル子育て奮闘記(59)日本へ(上)異文化拒否症(1998年 春)

2010年11月01日 07時00分
 【大紀元日本11月1日】娘のバイリンガル子育てにあたって、二年に一度、日本を訪れるようにしていた。円高でも夫の具合が悪くても、とにかく、これ以上日本から離れたら、娘の日本語は完全に消えてしまう、という危機感から、このパターンを貫き通した。そして、二年に一度、日本の母に来てもらうようにした。

 ある意味で、毎年同じ時期に日本に行ってしまい、同じお友達の誕生会を欠席してしまうより、自分の国のベースができてよかったのではないかと思う。

 2年生の時、ポーンと日本の小学校に入れてしまったが、もう、集団生活に無理に馴染ませる必要もないかと思い、4年生の時の旅では、外国人用のジャパン・レールパスという1週間、新幹線乗り放題の券を購入し、知り合いの家などを転々とさせてもらった。

 3月生まれで、7歳になったばかりの前回の訪日とは全く異なり、9歳になったばかりの娘は、日本に対して意外な反応を示した。

 とにかく、慣れ親しんだ自分の環境、学校の友達の方への思い入れが強く、100円ショップでクラスメートにお土産ばかり買っていた。食べ物も実に難しい。母が丹精込めて、はまぐりの吸い物を出したら「貝がかわいそう」。考えてみたら、我が家の食卓で貝はあまり登場していなかった。和食が出ると取りあえず「ぺっぺっ」と言ってみる。なんでバイリンガルに育てちゃったんだろう。英語しか分からなければ、悪いことも言えないし、みんなチヤホヤしてくれるのに、と戸惑うばかりだった。

 また、なまじ日本語が話せるので、まわりも特に気をつかわない。イギリスの田舎から東京に来たわけで、電車の乗り方も、マンションでは濾過された水を飲むということも知らない。当然のこと過ぎて、周りの人間も、敢えて教えてくれない。

 親としては、今回は学校に入れる代わりに、田舎の集団生活を体験させようと考えて、山村留学「育てる会」の見学というのを旅行に組み込んでいた。親子で様子をみるため、一泊だけさせてもらった。うまくいったら数週間送り込んで、日本語バッチリになってもらおう、という親の魂胆は、実に浅はかだった。

 今の都会で育った子供は、食べ方も風呂の入り方も知らないので、その辺の生活指導から始まる。ご飯とみそ汁の並べ方、お箸の持ち方…など、食事前に話があって、私には面白い。しかし、娘にはつまらない。「早く帰ろうよ」の連発。朝のラジオ体操は、修学旅行のノリで私には楽しい。娘にとっては、何これ?「残さず全部食べようね」という食事の席では、「お皿が冷たいよ」といって食べない。

 それでも、せっかくの山の中。皆が学校に行った後、その辺を散策させてもらった。しかし、歩かない。森林に響き渡らせながら 「はやくいらっしゃーいー」と叫び続けた。小さな山の上に着いたら、馬の像が密かに立っていて、その周りに囲いがしてあった。これは気に入ってくれたようだった。

 親の思惑はすっかりはずれ、くたくた、ぼろぼろになった山村留学見学だった。後日、すっかり忘れていた頃、娘が「あの時ね、貝を育てるところに行くのかと思ったら、貝がひとつもなくて、すごく困ったの」と教えてくれた。そうか、「育てる会」は娘にとっては「育てる貝」だったのか。漢字圏で育っていない娘との大きなコミュニケーションギャップに後で気付かされ、言葉もでなかった。

 (続く)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。


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