印刷版   

正岡子規(ウィキペディアより)

【漢詩の楽しみ】 送夏目漱石之伊予(夏目漱石の伊予に之くを送る)

 【大紀元日本12月25日】

去矣三千里 送君生暮寒
空中懸大岳 海末起長瀾
僻地交遊少 狡児教化難
清明期再会 莫後晩花残

去(ゆ)けよ、三千里。君を送れば、暮れ寒さ生ず。空中、大岳懸かり。海末、長瀾(ちょうらん)起こらん。僻地は交遊少なく、狡児(きょうじ)は教化難(かた)からん。清明、再会を期す。後るる莫れ、晩花の残りに。

 詩に云う。友よ、さあ行きたまえ、三千里という遠い旅へ。君を見送る今、夕暮れの寒さが僕の身にしみる。旅の途中、君は大空に富士山が懸かるのを見るだろう。海上には、大波が立つことだろう。そして、東京を離れた辺地の松山に着けば、交遊する友人も少なく、悪戯の好きな生徒らを教化するのは苦労させられるだろう。四月の清明節のころに再会しよう。くれぐれも、名残の桜が散ってしまう時期までは遅れないでくれよ。

 不思議なことだが、日本人も漢詩を作る。ゆえに旅立つ友に漢詩を贈ってはなむけとする風流は、李白や杜甫のみならず、日本人も嗜んだ。

 正岡子規(1867~1902)は、俳人または歌人として知られるが、実は2千首余りの漢詩も残している。漢詩の作成時期の方が早く、子規自身の言によれば11歳の時から漢詩を作り始めたという。病没するまでの晩年は、残された時間を俳句と和歌の創作・研究に費やしたため、子規の漢詩は多くない。表題の詩は明治29年(1896年)1月の作であるから、彼の晩年の作の一つであると言えるだろう。

 子規の親友・夏目漱石が、松山中学の英語教師として赴任したのが明治28年であった。その年末に中根鏡子との見合いのために上京し、正月を東京で過ごした漱石は、1月3日に子規庵で催された句会にも参加している。そして1月7日、松山へ戻る漱石を新橋駅で見送った際に、旅立つ友へ贈ったのがこの詩であった。

 この時、子規の病はかなり進んでいた。前年の明治28年4月、日清戦争の従軍記者として中国の遼東半島へ渡った帰途に、船中で大喀血して重体となる。その年、松山の夏目漱石の下宿に50日ほど身を寄せて療養していたが、10月には再び東京へ。その上京の途中、腰痛をこらえながら立ち寄った奈良で、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の一句を詠んだ。

 旅立つ漱石を見送った翌月の明治29年2月、子規自身リューマチだと思っていた腰痛の原因は、脊椎カリエスであったことが判明する。

 以来、病臥の人となった子規。その闘病は、全身が結核菌に侵されていく激痛に絶叫するものであったが、彼を慕う友人や、彼を師と仰ぐ後輩たちに囲まれた賑やかなものでもあった。よく食べ、よく泣き、愚痴ばかりこぼした厄介な重病人を、皆が好きだったのだ。

 
(聡)
 

 (10/12/25 07:00)  





■キーワード
漢詩の楽しみ  正岡子規  夏目漱石  俳句  松山  法隆寺  


■関連文章
  • 【漢詩の楽しみ】 偶成(ぐうせい)(10/12/11)
  • 【漢詩の楽しみ】 山行(さんこう)(10/11/28)
  • 【漢詩の楽しみ】 遊山西村(山西の村に遊ぶ)(10/11/13)
  • 【漢詩の楽しみ】 登岳陽楼 (岳陽楼に登る)(10/11/06)
  • 【漢詩の楽しみ】 静夜思(せいやし)(10/10/22)
  • 【ショート・エッセイ】木を彫る(10/06/13)
  • 【ショート・エッセイ】漱石と天麩羅そば(10/05/16)
  • 【バンクーバー通信】さくら祭り「俳句コンテスト」入賞者発表(09/03/19)
  • 【バンクーバー通信】2009年バンクーバーさくら祭り「俳句」の募集(08/12/02)
  • 【バンクーバー通信】桜まつりで「俳句コンテスト」(08/03/30)
  • 「千山 鳥飛ぶこと絶え」~冬至に寄せて~(07/12/22)
  • 「霜葉は二月の花よりも紅なり」-短歌募集を兼ねて-(07/12/19)
  • 過ぎ行く秋に思う-俳句募集をかねて-(07/11/30)
  • ち球を俳句ing 雪解けの『漢俳』の春(07/05/30)