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唐・太宗皇帝

文化を振興させた二大名君 唐太宗と康熙帝

 【大紀元日本1月17日】唐王朝(618~907)を開いた李淵(高祖)は、北方系の民族国家である北周の武人貴族出身であった。前王朝である隋滅亡の混乱の中から台頭し、618年、長安に入って即位する。

 高祖を助け、各地の群雄を平定したのが次男の李世民(太宗)であった。その後、唐の最盛期を迎えた太宗(在位626~649)の治世は、その元号を冠した「貞観の治」として名高い。

 太宗は、文官、武官ともに有能な人材を揃えて政治改革を進めるとともに、行政の中心部である三省六部を整備、また人民が負担する賦役を軽減するなどの民生にも心を配った。

 さらに太宗は、皇帝の誤りを諌める諌議大夫に、直言厳しい魏徴(ぎちょう)を抜擢して常に自身を律することに努めた。太宗に対する魏徴の諫言は200回に及んだが、魏徴の死に際して、大皇帝・太宗はひどく悲しんだという。

 太宗はまた、文化を積極的に保護し奨励した。国家的な文化事業として『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などの正史(歴史書)を編纂させるとともに、インドから経典を持ち帰った玄奘三蔵の仏典の漢訳作業に勅命を与えて支援した。実のところ、玄奘三蔵は無断で出国してはならないという国禁を犯してインドへ向かったのだが、太宗は寛大な処置をもってこれを許している。また、史実であるかは定かでないが、長安に帰り着いた玄奘三蔵を、太宗自ら宮殿の外で出迎えたともいう。

 時代は約千年下り、中国に再び名君が生まれた。

 満州族の王朝である清朝が立ったのは1636年、それが山海関を破って北京に入城したのは1644年のことである。しかし、前王朝である明の遺臣や王族が各地で抵抗していたため、清による実質的な全国統治がおこなわれたのは、第4代皇帝の康熙帝(在位1661~1722)に至ってからであった。

 康熙帝は、政治、外交、軍事のいずれの分野にも卓越した天才であったばかりでなく、『明史』『康熙字典』『古今図書集成』の編纂など文化政策も積極的に進めた。

 満州族である清朝の中国文化受容は、通常、被支配者である漢民族の歓心を買うためと理由づけられている。確かにそのような一面はあるにしても、康熙帝の場合は、何より皇帝自身が非常に学問好きであり、漢人の学者を毎日召して、朱子学をはじめさまざまな中国伝統文化を進んで学んだ点が特筆されるのだ。

 唐の太宗、清の康熙帝、いずれも文化に対して最大の敬意をもって接し、これを大いに振興させた英明なる君主であった。その大徳が周囲を感化し、国は栄え、民衆は安心して生業に励み、長く安定的な王朝を保ったのである。

 これに対して、文化を破壊する為政者は、暴力と腐敗と欺瞞しかその統治手段を持たない。もちろん、そのような政治は民衆の支持を得られず、必ず短命で終わる上、中国史上に恥ずべき暴君として汚名が刻まれることだろう。

 では、正統な中国伝統文化とは、どのようなものか。

 残念ながら、文化を破壊した「暴君」が支配する今日の中国では、それを見ることはできない。現代中国は、歴史上最も文化不毛の時代にあるのだ。

 中国国内では目にすることのできなくなった中国伝統文化を、海外の心ある華人が復興させ、今まさに全世界に届けている。今年4月に来日する「神韻2011世界ツアー」がそれだ。

 神韻が伝える舞踊、音楽、物語の全てに、中国伝統文化の真髄が詰まっている。

 
1月9日、神韻ニューヨーク公演のフィナーレ(写真=大紀元)

(牧)


 (11/01/17 07:00)  





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太宗  李世民  貞観の治  玄奘三蔵  魏徴  康熙帝  康煕字典  古今図書集成  神韻世界ツアー   


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