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夏目漱石(ウィキペディアより)

【漢詩の楽しみ】 無題(むだい)

 【大紀元日本1月15日】

海南千里遠 欲別暮天寒
鉄笛吹紅雪 火輪沸紫瀾
為君憂国易 作客到家難
三十巽還坎 功名夢半残

 海南、千里遠く、別れんと欲せば暮天(ぼてん)寒し。鉄笛、紅雪を吹き、火輪、紫瀾を沸かす。君が為に国を憂うるは易(やす)く、客と作(な)りて家に到(いた)るは難し。三十、巽(そん)にして還(ま)た坎(かん)。功名、夢半ばにして残(ざん)たり。

 詩に云う。海南の地である四国は、遠く千里も離れている。今別れようとする僕にとっても、夕暮れの空は肌寒い。西へ向かう蒸気機関車は赤い火の粉を吹き出して走り、蒸気船は青い大波を逆巻いて進む。大君のために憂国の思いを持つのはむしろ易く、こうして旅の身となった自分が、再び家に帰り着くことのほうが難しいのだ。三十の歳になって、人に遅れをとり、さらにまた苦労ばかりしている自分。功名の夢も、人生の半ばで朽ちてしまったのか。

 夏目漱石(1867~1916)が、自作のこの詩を贈った相手は正岡子規であった。二人は大学予備門(現在の東大教養学部に相当)での同窓生である。

 明治29年(1896年)1月7日、四国の松山から東京へ一時帰郷していた漱石が再び松山へ戻るにあたり、松山出身の子規が新橋駅で見送り、送別の詩「送夏目漱石之伊予」を贈った。

 その友情の返礼として、東京の子規のもとに届いた葉書に記されていたのが、この詩であった。葉書の日付は1月12日というから、漱石は松山に着いてすぐにこの詩を書き送ったらしい。脚韻の「寒・瀾・難・残」には、先の子規の詩と同韻の文字が使われている。

 当時、軍人ならば軍功を立てて昇進を望むように、知識青年は、官政法のいずれかの分野において立身出世を希求するのが当然であった。その点、子規と漱石は、坂の上の雲を目指して駆け上っていた明治青年のなかの、言わば落伍者であっただろう。

 明治26年に大学を中退して俳句短歌の革新に没頭する子規に対して、漱石は、同じ明治26年に東大英文科を卒業して高等師範学校の英語教師になったものの、神経衰弱など精神面の過敏さもあって明治28年に松山へ「都落ち」。翌29年には熊本の第五高校の英語教師になる。

 明治33年、漱石は文部省より英国留学を命じられた。当時、留学とは国家的重責を担って送り出される大任であった。留学先のドイツで西洋人と対等にわたりあった森鴎外のような図太さを持たない漱石は、英国で再び極度の神経衰弱になる。漱石の経歴を長く述べる紙幅は持たないが、畢竟、漱石は立身出世むきの人間ではなかった。

 そこから考えると、子規に贈った詩の最後の二句には、重病のため余命の限られた親友が明確な目標をもって燃焼しようとしていることに対して、迷い多く、友に及ばぬ自身の不甲斐なさを嘆く漱石の姿が窺える。後に職業作家となり、文豪と呼ばれた夏目漱石もまた病多く、短命の人であった。

(聡)
 

 (11/01/15 07:00)  





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漢詩の楽しみ  夏目漱石  正岡子規  松山  坂の上の雲  


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