THE EPOCH TIMES

高智晟著『神とともに戦う』(66)頻発する学校死亡事件②

2011年05月22日 06時33分

 【大紀元日本5月22日】子供が突然亡くなるというこの世で最も沈痛で悲しい事件が起きてしまったら、理性をもって、そのような悲劇を招いた目に見えない危険と不足点を探し、亡くなった幼い命を、自らの覚醒とするに足る価値あるものにしなければならない。人の模範となるべき学校の教師が故意に子供、それも自分たちの教え子の命を奪うなど、誰だって思いもしないことだが、現実に、子供が学校で死亡する事件が起こっているのだ。ならば私たちは、その実践において(子供の死亡事件においてすら)絶えず総括し、評価し、安全を完璧に確保できるよう弛まぬ努力を続けなければならない。特に、子供の命を守るセキュリティーシステムは、学校のトップの通常の責任というだけではなく、これは根本的に学校を統括する者の法的職責である。学校を統括する立場の人間が、まさに真剣に自らの職責と向かい合い、自身の職責に畏敬の念を抱き始めてようやく、誠実に安全の大切さに向かうことができるし、一人ひとりの子供の命への敬いの気持ちも生まれるのだ。

 もちろん社会や政府は、教員たちが自覚し重視する学校の安全、および子供の命の大切さへ敬いをもつという希望を、教員たちの道義、道徳観に対する自覚に委ねることを許していない。なぜならそれは、危険な状態を放任することに他ならないからだ。決して姑息な妥協をしない司法による戒め、科学的かつ実行可能な規制制度、さらには職務怠慢者の責任を追及し処罰する制度、これらはみな欠かせないものだ。王敬伊さん死亡事件が発生して後、悲しみに打ちひしがれている王敬伊さんの両親(どちらもすでに50歳余り、王敬伊さんは一人息子だった)を前にして、子供が生前尊敬していた大学の学長は、まるで軽蔑するかのような態度で「自分たちの身分をわきまえなさい。何様だと思っている。どんな資格があって学長を直接尋ねてきたのか」と、冷たくあしらったのだった。

 王敬伊さん事件の善後処理の過程で、学校は社会的責任を担うのではなく、責任逃れを核心的な目標にして、自己の利益のために一丸となっている点に、読者諸氏は残念ながら気づくはずだ。更に失望を禁じ得ないのは、学校を所管する部門である教育行政部門が、この事件において責任逃れをし、事件の真相を隠ぺいする共犯者となることを、例のごとく選んだ点である。教育行政部門は、社会の教育行政部門の職責という自身の任務を忘れ去り、全くあからさまに、ただ学校だけを主管する一つのシステムに過ぎない上級部門に堕落したのであった。「穏便こそ全てに勝る」という病んだ価値観に駆られるがごとく、このような事件が起きれば、判で押したようにいつでも命を奪った学校とぐるになり、あらゆる手段を用いて一切の真実を隠蔽し、死亡した子供の両親や親類の正当な訴えを抑圧するのである。

 思わず噴き出してしまいそうな低能な方法で、ウソの文書を出して責任逃れに走る。王敬伊さん事件では、学校を管轄する教育行政部門が終始、そのような責任逃れに躍起になる姿が見られた。高棣君の事件でも、責任逃れのために手段を選ばない教育行政部門の姿を、人々は失望の面持ちで目にすることとなる。

 「崇文区教育委員会」の印鑑が押された「崇文区教育委員会による培新小学校・高棣君の保護者に対する回答書」では、以下のように結論づけられた。「調査によると、培新小学校の学校施設は、国の安全基準と規範に合致する。学校の安全制度は健全といえる。生徒への日常の安全教育や管理へ注意を払っている。事故発生後、ただちに救命活動を行い、ただちに報告し、また保護者のケアのため、非常に多くの人力と資金を費やし、多くのことを行った。このため、学校は『規則』と『条例』の定める相応の職責を実行しており、主観的な過失はない」

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