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鎌倉・成就院のあじさい(大紀元)

鎌倉 あじさいと歴史の散歩道

 【大紀元日本6月25日】「切り通し」と呼ばれる場所が、鎌倉を取り囲むようにしていくつか現存する。山を切って道を通したもので、言わば人工の小峠のことである。

 鎌倉の外側から、わずかに開いた障子の隙間のような切り通しを目指して登ってくると、やがて伸びやかな展望が開ける。見えるのは、昔と変わらぬ鎌倉の由比ガ浜である。

 6月、古都・鎌倉はあじさいに彩られていた。日本人の好みに合ったその色彩に引かれて多くの観光客が訪れるため、この時期ばかりは、静かな風情というより、かなり賑やかな雰囲気になることは避けられない。通常は2輌で海岸沿いをのどかに走る「江ノ電」も、この時期は4輌編成で、しかも都心の通勤ラッシュのように満員であった。

 訪れたのは6月15日。鎌倉のあじさいは、まだ少し早い五分咲きで、6月下旬から7月上旬に最盛期を迎える。極楽寺坂切り通しをゆるやかに登り、さらに成就院の石段を踏み上がると、反対側から上ってくる参道の両側にあじさいの花が咲き、遠くには由比ガ浜の渚が見える絶景ポイントに着く。人が多いのはやむをえない。シーズン中にあじさいをゆっくりと観賞するには早朝がいいという。

 遠くには、ちょうど引き潮どきの浜辺と、海に近い鎌倉の市街が見える。

 あじさいとともにその風景をカメラに収めていると、京都や奈良に比べればはるかに狭いこの土地に、約150年にわたって政治の中心が置かれ、日本史の一時代にその地名が冠されてきたことが、何やら一種の不思議のような気がしてきた。

 
あじさいの名所・成就院の参道から、遠く由比ガ浜を望む(大紀元)

日本史の進展は、近世以前までは常に西国が先行していた。この頃の関東平野はまだ未開の原野が多かったため、当然ながら、実質的な経済の中心は依然として京都にあり、また朝廷も古来の御所を離れることはなかった。

 それでも鎌倉時代(1185~1333、異説あり)という、いかにも中世の特色を顕現した時代となりえたのは、京都から遠く離れた関東の地に置かれた鎌倉幕府に「征夷大将軍」という朝廷のお墨付きを得た人物が存在したことによる。

 当初、関東に文化教養はなかったが、兵は剽悍で強かった。平安時代の貴族政治が終焉し、貴人の警護役だった侍(さぶら)うもの、つまり武士が政治を行う世になった。ところが、京都にあって貴族趣味にはまった平家一門の公達武将らは、和歌や蹴鞠には長じていたものの、山野の野生児である源義経や木曽義仲の猛攻にはとても耐えられなかった。

 後に征夷大将軍となる源頼朝は、その平家滅亡のありさまを鎌倉から見ていた。

 平家追討に功績を上げた実弟・義経を奥州藤原氏もろとも滅ぼした源頼朝は、武将というよりは、やはり政治家であったのだろう。彼は、京都を欲せず、あえて鎌倉の地にあって、武士としては最高位の征夷大将軍となった。(もちろん将軍就任までには、さかんに朝廷工作をしているが)

 こうして武家の棟梁は、御家人の領地を保全し、功績あれば恩賞として領地を加増することとなり、また御家人は、主君に大事ある時には「いざ鎌倉」とばかり真っ先に馳せ参じるという約束が成立した。

 この時期の主従関係とは、儒教道徳的な忠義ではなく、相互の利害関係であった。しかし、独立的志向が強く、土地をめぐって闘争ばかりやってきた東国武士団をまとめ上げるため冷徹な政治家でなければならなかった源頼朝は、義経びいきによる後世の不人気とは正反対に、実は卓越した統治者であったらしい。

 そのことは約400年後に、三河の山奥が出自である徳川家康が、頼朝をそっくり手本にして強引に「源氏」を名乗り、同じく征夷大将軍に就いたことからも窺われる。

 
鎌倉の海、由比ガ浜から望む稲村ガ崎(大紀元)

鎌倉の海、由比ガ浜の西の端は、古戦場・稲村ガ崎である。鎌倉幕府終焉のとき、『太平記』によれば60万もの大軍勢が新田義貞の討幕軍に加わったという。数字的な誇張はあるだろうが、それらの大軍をもってしても、鎌倉を囲む七つの切り通しを死守する幕府軍を突破することはできなかった。

 攻めあぐねた新田義貞は、波間に太刀を投げ入れて荒海を鎮め、ついに稲村ガ崎の先端を突き破る。市中になだれこんだ討幕軍によって、鎌倉幕府は滅んだ。

 
鶴岡八幡宮の石段と、再生中の大銀杏(大紀元)

鎌倉観光の中心として今も賑わう鶴岡八幡宮。第三代将軍の源実朝をこの場所で襲撃して暗殺したのは、前将軍頼家の子・公暁(くぎょう)である。

 社殿へ昇る大石段の西側(左)には、樹齢800年とも言われる銀杏の巨木があった。刺客である公暁が、その陰に息を殺して潜んでいたと伝えられる「公暁の隠れ銀杏」は、昨年3月10日、強風のため根元から折れて倒れた。

 鎌倉のシンボルであり、全国の人々から再生を期待されていた大銀杏は今どうなったか。

 見ると、残った根株から1メートルほどの蘖(ひこばえ)が何本も伸びている。木は、生きていたのだ。

 この小枝が再び人々が見上げるような大樹に育つには、長い年月を要するだろう。

 しかし今は、滅びたと思われた生命が絶えておらず、再生に向けて力強く歩みだしている事実を、日本復興を目指す私たちの大いなる励みとしたい。

 
鎌倉市内では、鋳鉄製の赤いポストが現役で活躍していた(大紀元)

(牧)


 (11/06/25 07:00)  





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