THE EPOCH TIMES

【党文化の解体】第8章(1) 習慣化された党文化の思惟

2011年08月14日 11時22分
 【大紀元日本8月14日】一つの文化が形成されるまでには通常きわめて長い時間を要するが、ごく短い数十年で、中国共産党は尋常でない宣伝と残酷な政治運動を通じて中国で党文化を作り上げた。国民は最初に受動的に党文化を受けたが、だんだんと党文化を自分の習慣的な考えにし、これは党文化が中国社会に根を下ろした象徴ともいえる。一旦習慣が形成されると、党文化は人々の命の一部分となり、それは外部から頭に注ぎ込まれたものでなく、自分の頭にもともとあるものだと思うようになる。これで、党文化の考えは中国人の「本性」となった。

 世界中の各民族の嗜好と考え方は千差万別だが、どれでも基本的な人間性に由来するものである。しかし中国人が共産党に無理矢理に押しつけられた「本性」は、人間性に由来したものでなく、「党人気質」に由来したものである。中華民族は党文化に変異されて、国民は互いに警戒心を持って、言葉に闘争意識を充満させている。文学、芸術の創作は、党の話題から離れられず、日常生活の中で党の観念に合わない思想を危険と思い、習慣的に党八股の話し方をして、党と政府、党と国家、党と民族の関係の概念を混同して錯誤している。

 このような党文化の思惟は社会全体を巻き込み、思惟、言語、行為など各方面に影響を及ぼす習慣的な原動力になっている。たとえ中国共産党が崩壊したとしても、党文化の「習慣的な思惟」が除去されないかぎり、未来の中国は依然として共産党の影に覆われたままの社会である。思惟、言葉と行為の中の党文化による「習慣」を除去しなければ、中国人の判断、分析と選択は依然として影響され、中国人は依然として互いに警戒して、大自然と闘って自然資源を略奪して、依然として「国際社会の反中国勢力は中国を滅ぼす野心を止めない」と思ってしまう。高速で走る自動車はエンジンを止めてからでも慣性で相当の距離を滑走するのと同じだ。だから、本シリーズの最後の一章に、党文化の習慣的な思惟を一掃するのはとても必要であると思う。

 1.誰に対しても警戒心を持ち、言葉に闘争意識を帯びる
  1)誰に対しても警戒心を持つ


 中国人は古来より素朴で客好きである。孔子曰く「朋遠方より来たるあり。また楽しからずや」。しかし、今日の中国でもし知らない人に親切に接されると、世の中に「理由のない愛は存在しない」と思って、相手はきっと何かを企んでいると推測する。子供を連れて助けを求める人を見ると、きっと子供を使う詐欺の罠だと推測する。道端で助けを求める人に会うと、近くに彼の仲間が隠れて、自分は彼らにやられないかと心配する。

 逆に、西洋に行った中国人が最も感銘するのは、人と人の間の友好である。道で知らない人でも微笑んで挨拶してくれて、車は故障したら、助けが要るかと知らない人でも声をかけてくれる。子供を連れて車の故障に遭うと、いっそうみんなが争って助けの手を差し伸べてくれる。

 「君子は敬って落ち度が無く、恭しくして礼あれば、四海の内は皆兄弟たり」とは、古人が憧れる儀礼の国である。今日、儀礼の国だった中国にどうして人と人の間の調和が見えなくなって、「他人を警戒しないといけない」意識が充満しているのだろう? このような警戒心は知らない人に対して生じるだけでなく、部下と上司の間、近所、同僚ないし親戚と友人の間にも存在する。宴会場の熱々な交遊の裏に、自らを守るために他人を警戒する気持ちは隠されている。

 今日の中国人の心は警戒厳重な城とでも言えるだろう。互いの間の警戒心は当然なことになっている。正常社会の人はまったく警戒心がないのでなく、こそこそする人を見て警戒心を持つのは過度でもない。しかし、現在の中国人は相手と接触する当初から警戒心を生じて、相手に良くない企みがあると仮定する。誰に対しても警戒心を持って、時々刻々と他人を敵とみなして防備するのは、人間の正常な状態といえない。ある人が「中国人の生活は本当に疲れる」と言ったが、それは本当だ。

 (続く)

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