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利根川の川幅は広いところで1kmにもなる。写真手前は、香取近くの津宮の渡し跡に立つ大鳥居(大紀元)

千葉・佐原 伊能忠敬と天地人

 【大紀元日本8月27日】坂東太郎の異名をもつ利根川。黄河や長江には及ぶべくもないが、日本に大河と呼べる川があるとすれば、目の前に広がるこの川はその第一に挙げられるだろう。

 訪れたのは残暑厳しい8月18日であった。無人駅のJR香取駅で降りて、まずは利根川を目指す。汗を拭きながら土手に登ると、一気に視界が開けた。こんな広い風景は東京都心では望みようもない。日に照らされて眩しい川面をわたる風に、心がのびやかになった。

 千葉県の北東部に位置する香取市は、平成18年に旧佐原市といくつかの町が合併してできた新しい市である。伝承によれば紀元前643年に創建されたという香取神宮がこの地にあるように、香取という地名は古くからあった。ただ近世以降は、江戸時代の利根川水運で栄え、また関東三大祭りの一つ「佐原の大祭」でも有名な、佐原の名前のほうがよく知られているようだ。

 「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町、江戸まさり」と唄われたように、江戸にも勝る賑わいを見せたのが当時の佐原だったという。その名残りを留める風景が、小野川沿いの古民家や蔵造りの家などに残っている。それを目にしたかったことはもちろんあるが、今回の当地訪問の第一の目的は、佐原の商人として50歳までを堅実に働き、隠居後、江戸へ出て学問を積み、足掛け17年をかけて日本全国を実地測量して『大日本沿海輿地全図』を作成(完成は忠敬没後)した伊能忠敬(いのうただたか、1745~1818)の原点に触れることだった。

 そんな伊能忠敬の生涯に、現代の私たちは大きな魅力を感じている。商家の主人としての大任と、地図作成という官命、いや忠敬本人にとっては天命であっただろうが、その両方を見事に果たした伊能忠敬に学び、「願わくは自分も」と思う日本人は少なくないはずだ。

 九十九里浜の小関村に生まれた算術好きの三治郎は、17歳で佐原の商家・伊能家へ婿入りし、名も忠敬と改める。

 この時の伊能家の商いは衰退しており忠敬がそれを再興させたとも言われるが、実際はそうではなく、忠敬の婿入り前から、伊能家は酒造・醤油造り・金融業・水運業などを手がける有力な商家であった。ただ、美談的脚色を除いても、忠敬が伊能家を隆盛させたことは事実であろう。

 忠敬の隠居後の猛勉強ぶりに、現代の多くの人は、充実したセカンドライフ的な憧れをもつが、忠敬の骨格となった「学び」の基礎は、まさしくこの佐原時代にあったと思う。

 忠敬はまず「趣味」の学問を封印した。商家の主としての実学を徹底的に教え込まれ、また自身もその定めを受け入れて、進んで学んだ。入り婿であったから、初めは周囲の侮蔑や陰口もあっただろう。ただ彼が佐原で、利益追求の方法論ばかりでなく、人徳の不可欠性も身につけたのは幸いであった。

 忠敬が隠居するに当たり、家督を譲る長男・景敬に申し渡したという「伊能忠敬家訓書」がある。要するに「嘘をつくな。良い意見は取り入れろ。態度を慎め」という、言わば当たり前の人道を説いたものであるが、その基本を忘れがちなのもまた人間であるとするならば、忠敬が息子に、あるいは後代の伊能家に遺したかった精神のエッセンスが、結局はこれであったということらしい。

 忠敬は商人であり、しかも単一業ではなく総合商社の社長であったから、当然、さまざまな金儲けをした。江戸期最大の飢饉と言われる天明の大飢饉(1782~1788)は、東北から関東にかけての広範囲において、推定数10万人の餓死者を出したという。その際、米価が高騰することを予見した忠敬は、関西の米を大量に買い付け、江戸で売って富を得た。ただ彼は、金儲けばかりでなく、その米を窮民への救済にも供出しているのである。

 彼の善行を「計算」と見る必要はない。伊能忠敬の生涯は、その商業活動や晩年の地図作りも含めて、全てが天地人とともにあり、誠実であったと見ればよいのである。

 忠敬が佐原村の名主の一人になって翌々年の1783年8月、天明の大飢饉を深刻化させる一因ともなった「浅間焼け」、つまり浅間山の大噴火が起きた。噴出した大量の火山灰は佐原にも降り落ち、農地に甚大な被害をもたらした。

 さらに、浅間の火山灰は土石流となって利根川流域の各処に襲い掛かり、ついに佐原の堤防を決壊させたのである。しかし、幕府から派遣された水普請の役人は全くの無能者であり、自分の保身以外、任務を遂行する意志もなかった。

 収穫前の稲が泥水に呑まれる。佐原の領民にとって生死をかけた闘いが始まった。その陣頭指揮にあたったのが、38歳の伊能忠敬だった。地の利、水の利を活かし、また領民の人望を集めて奮闘した結果、伊能忠敬の利根川治水は、ついに成功したのである。

 忠敬の全国測量について書く紙幅は、すでに持たない。ただ、忠敬の晩年の超人的な活躍の原点がこの佐原にあったことは、今回の訪問で十分に感じ取れたつもりだ。

 関東有数の早場米の産地である佐原は、今年も豊かな実りの季節を迎えていた。重く頭を垂れる一面の稲穂を見て、この国の不屈を信じた。

小野川の両岸に残る、江戸から明治期にかけての古民家(大紀元)

県重要文化財の三菱館は、大正3年に竣工した旧三菱銀行(大紀元)

佐原公園内に立つ伊能忠敬像は、大正8年の作(大紀元)

江戸の昔から佐原は早場米の産地。お盆明けのこの季節、豊かに実った稲が刈入れを待つ(大紀元)

(牧) 

 (11/08/27 07:00)  





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