THE EPOCH TIMES

栃木・旧谷中村遺跡 水と大地の鎮魂歌

2011年08月01日 07時00分
 【大紀元日本8月1日】誰のものともわからぬ古下駄を、宗三郎は手荒く炎の中にくべた。

 「お前さんのところで風呂によばれようとは、思いもかけなかったよ」

 いたわるように正造の声が降ってくる。宗三郎は反撥して、「風呂なんて、水と焚木さえあればどこでだって」。

 「そういうものじゃない」。正造の声に、はじめていつもの重みが戻った。

 「風呂を焚いてくれるのは人間の心だ。心のゆとりだ。これほどひどい目に会いながら、なお人間の生活を護ろうとするお前さん方の心がうれしいのだ」

 城山三郎の小説『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』の一場面である。文中の「正造」という人物は、明治から大正期にかけての近代日本における公害問題について、初めて国家の責任を追及した田中正造(1841~1913)である。

 同じく文中に出てくる「ひどい目」とは、どんな目か。その年の夏、つまり明治40年(1907)の6月29日から約1週間、政府は土地収用法によって、谷中村の残留農民19戸のうち、堤防の内側にあって水没させるべき土地に残っていた16戸の家屋を強制破壊した。野天に放り出された農民は、それでも抵抗の意志を示すため、原始生活のような粗末な小屋を作り、幼児や老人とともにその地に留まっていた。湿地帯であり、雨が降ればその惨めさは計り知れないだけに、これ以上の「ひどい目」はないだろう。

 小説のこの場面は、すでに冬の寒さが迫る時期になっている。ここで田中正造が入っている風呂は、野外に風呂桶だけが据えられた野天風呂であり、小説ではこの後、降り出した雨の中、村人を心配する正造が、蓑笠をつけて暗闇の谷中村を見回る場面へと続く。正造、この時67歳、病没する6年前であった。

 谷中村があった渡良瀬遊水池は、今日の地名では、栃木県の最南部である栃木市藤岡町にその大部分が属する。

 古来よりこの一帯は、洪水の苦労が多かった。しかし、土地の農民はそれを厭わなかったという。渡良瀬川が上流の足尾山地からもたらす栄養分は、まさに荒ぶる洪水によって大地に広がり、他の土地ではとても望めないほどの豊かな実りをもたらしてくれたからだ。農民は、水塚(みつか)という盛り土をした上に家を建て、洪水時に使用する小舟を用意しておいて、大地とともにたくましく生きていたのである。

 ところが、その谷中村の豊かな実りは、やがて死んだ。

 明治29年9月、大雨によって普段の数倍の川幅にふくれあがった渡良瀬川は、谷中の一帯を呑み込んだ。それは石灰の混ざったような不気味な色をした泥水で、その泥が厚く堆積したあとは、無数の魚の死骸が残されただけの不毛の土地となった。雨の中、現場を見回った田中正造は「ついにきたか」と歯噛みをしたという。

 足尾銅山による鉱毒汚染は、渡良瀬川の鮎の大量死などで明治11年ごろから現れていた。当初は、公害(鉱害)などという概念がなかったため、その原因も特定できなかった。やがて、銅の精錬時に排出する有毒ガスにより足尾の山は草木も生えない禿山となって崩落し、垂れ流される鉱毒水によって渡良瀬川は「毒の川」となった。

 原因は明らかになった。しかし、その時すでに、下流にもたらされる土は豊かな恵みの土壌ではなく、恐るべき鉱毒を含んだ大量の泥土に変わっていた。明治23年ごろから、谷中村にも鉱毒の影響は現れており、農作物の不作だけでなく、牛馬が倒れたり、村民の身体に深刻な健康被害が出ていたのである。

 政治家・田中正造は、帝国議会の壇上で数回、時には2時間以上にわたる熱弁をふるって足尾の鉱毒問題を取り上げ、政府の責任を追及した。しかし、国会議員として11年、足尾鉱毒の問題を訴え続けた正造の努力は、政治の場では実らなかった。

 明治34年、議員を辞した田中正造は同年12月に、明治天皇の馬車に突進して直訴するという、日本史上の誰もなしえなかった大胆な行動に出る。

 当然、死ぬ覚悟であった。実際、近衛の騎馬兵が長槍で正造を突いたが、馬がはねて槍先が外れたため、正造は命を拾った。

 取り押さえた警察も手に負えなかったためか、罪には問われず、その日のうちに正造は釈放となった。正造自身の言によれば、「頭のおかしな老人が、天皇陛下のお馬車の前によろめき出ただけと見なされた」からだという。

 在野の人となった田中正造は、その後も常に民衆や村人とともにあった。

 渡良瀬川の鉱毒水が利根川から江戸川に入って東京市内に影響することを避けたい明治政府は、足尾銅山の操業を停止するのではなく、谷中村を強制収用し、そこに巨大な遊水池を作って鉱毒を沈殿させることを計画した。

 洪水被害の予防という名目ではあるが、政府側のあまりの不誠実さと話にならぬほど低い補償に、谷中の農民たちは必死の抵抗をした。それは、暴風の中にゆれる燭光のような小さな灯であったが、彼らの希望は「田中先生がついている」ことであった。それが冒頭の野天風呂の場面につながる。

 それからほぼ百年後の今年7月24日、暑い日であったが、その谷中村、正確に言えば旧谷中村遺跡を訪れてみた。背の高い夏草の中に埋もれて、静かに「彼ら」はいた。

 今でこそ、谷中湖の北と東に広がる渡良瀬川遊水池は、広大なヨシ原が広がり、野生のキツネやタヌキなどが生息する一大「自然保護区域」のようになっている。湖畔の説明板は、この人造湖が洪水の抑制に有効であることをうたっている。しかし、そもそもここは、民衆が公害被害を訴える最前線だった場所なのである。

 後世の人は、田中正造を「義人」と呼んで称賛する。

 しかし、その人物をやたら持ち上げるばかりでなく、正造の人物や業績を誠実に学び、それを自身の行動として具現化できる現代人が果たしてどれほどいるのだろうか。

 田中正造が逝去する前年、明治45年(1912)6月17日の日記に、有名な「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」の言葉がある。

 その徹底した正義感、理不尽な権力に真っ向から抵抗する闘争心、弱者や幼い者へのあふれるほどの優しさは、今日の国難を乗り越えようとしている私たちにとって、こんな硬骨の日本人が百年前にいたのだという、一種の「輝き」を放って甦ってくる。

野渡橋から上流方向を見た渡良瀬川(大紀元)

人造湖である谷中湖の北側には、広大なヨシ原が広がっている(大紀元)

旧谷中村遺跡には、最後まで留まった村民の慰霊柱が立つ(大紀元)

(牧)
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