THE EPOCH TIMES

中国伝統文化への誘い(五)唐

2011年12月24日 07時00分
 【大紀元日本12月24日】

 日本語のなかの唐

 唐詩(からうた)、唐紙(からかみ)、唐門(からもん)、唐辛子(とうがらし)、唐茄子(とうなす)。日本語のなかの「唐」を挙げればきりがありません。なかでもすごいのはトウモロコシで、唐(とう)唐土(もろこし)と全く同じ語源をもつ言葉が重ねられた畳語なのです。

 余談ながら、唐(から、とう)の概念はその後広がって、中国に限らず、日本からみた外国一般を指すようになります。

 韓を「から」と呼ぶのは、昔、朝鮮半島の南端にあった国の加羅(加那、任那とも)に由来しますが、言葉の概念としては、やはり「日本からみた外国」という部類に属します。ちなみに現代の韓国人はこれを「加那」と呼び、それ以外の名称は使いません。

 さらに余談ですが、昭和初期に小説や映画になった「唐人お吉」の唐人とは、西洋人のことです。つまり唐人イコール外国人(西洋人を含む)という概念が、なんと昭和に至るまで、さほど違和感をもたれず日本語のなかに存在したということです。

 言い換えれば、本来の語源からはるかに遠い概念まで網羅するように、「唐」という絹のような輝きをもった風呂敷が、私たちの日本を大きく包んでいたことになります。

 唐に学んだ日本人

 唐(618~907)は、300年近い王朝を保ちました。そのなかに混乱や衰亡の時期があるのは当然としても、世界史上において他に類を見ない、成熟した文化を築き上げたことは賞賛してよいでしょう。後世の中国人でさえ、唐の模倣はしても、唐に匹敵する文化を生み出すことはできなかったのです。

 ここでいう文化とは、皇帝から庶民に至るまで、全ての人心を安らかにし、道徳を高めることができる正当な伝統文化のことです。

 日本を例にとりましょう。日本は、中国文化と密接に関係をもちながら、また独自の歴史を歩んできました。日本人が積極的に中国文化を受容したのは、やはり奈良朝から平安朝にかけての遣隋使・遣唐使の時代です。遣隋使は、600年から618年の間に5回以上派遣されました。遣唐使は、630年から894年の間に18回任命されて、そのうち15回実施されています。

 わが国が「日本」という国号をつかうようになったのは、遣唐使の時代からです。

 日本は、当時の中国つまり唐に、大いに学びました。日本が国家としてまず求めたのは、その政治を機能させる制度のお手本です。そこで、唐の律令にならって、大宝律令(たいほうりつりょう)をつくりました。律は刑罰に関する法律、令は主として行政法に相当します。 

 社会に秩序をもたらすための学問として、儒教を取り入れました。また、疫病や天変地異などの国難を除くとともに、動揺する民心を安んじるため、仏教寺院の建立、仏像・仏画の制作も進みました。奈良・東大寺の大仏も、唐にあるような大きな仏像を求めた聖武天皇の発願により造られたものです。

 仏教は、6世紀頃には日本に伝わっていましたが、税を逃れるため私度僧になったり、戒律を守らない破戒僧が多くいたのです。そこで正式な受戒の師として日本に招かれたのが唐の高僧・鑑真であったことは、ご存知の通りです。

 大皇帝・唐太宗

 唐の第2代皇帝・太宗(李世民)は、中国史上最高の名君と呼ばれています。

 太宗は民を大切にし、民に合わせた治世を行いました。太宗は、皇帝に即位する前に、学術研究機関である文学館を設立しましたが、その文学館の「十八学士」と呼ばれた賢才をはじめとする才能のある人物を、後の自身の行政に採用しました。また太宗は、皇帝に対する適切な諫言をよく聞き入れるなど、臣下の長所を大いに活かしたのです。

 このような太宗の治世は、最も平和で安定した時期を中国にもたらしました。高貴な者も、民衆も、和を以て幸せに暮したとされています。この時代について、歴史書である『旧唐書』は次のように記述しています。

 「追い剥ぎに遭う恐れもなく、商人たちは自由に移動できた。牢獄は空で、家の戸締まりをする必要もなかった。稲はたわわに実り、一斗の米がわずか3、4銭だった。旅の途中で食べ物が供給されたので、旅人は食料を持ち歩く必要もなかった」

 大輪の花咲く唐文化

 日本に和歌がなかったら日本文化が成立しなかったように、漢詩のない中国文化などはありえません。

 日本人が漢詩と呼んでいる文学ジャンルは、広い意味では『詩経』『楚辞』から宋・明・清それぞれの時代の詩まで含まれるのですが、実質的には唐代の詩、つまり唐詩を指しているといって過言ではないでしょう。

 唐の時代に、詩はほとんど爆発的といってよいほど発展しました。五言や七言、絶句や律詩などの形式だけでなく、平仄、押韻、対句などの細かな規定が定められました。作詩が科挙の試験科目の一つとして定着したことも、その発展の背景にあります。

 また、文化の豊かな国家には、美しい舞踊や音楽が花開きます。

 太宗の「貞観の治」と並んで唐に繁栄をもたらした「開元の治」は、第6代皇帝・玄宗の善政によるものでした。その玄宗は、宮廷音楽の専門家養成所である「梨園」を設けて、中国伝統舞踊や音楽の発展に努めました。

 玄宗が自ら作曲に参与したとされる「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」は、残念ながら楽譜が散逸して、今日に伝わっていません。

 しかし唐代文化をはじめとする中国伝統文化は、ニューヨークに拠点をおく神韻芸術団によって継承・復元されています。

 その神韻2012世界ツアーが、また新たな感動を呼んで日本にやって来ます。

 
(牧)


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