THE EPOCH TIMES

中国伝統文化への誘い(六) 宋

2012年01月06日 07時00分
 【大紀元日本1月6日】

 留学から交易の時代へ

 鎌倉時代に成立した軍記物語『平家物語』のなかで、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた平氏の栄華を築いたのが平清盛でした。

 時は平安時代の最末期。清盛は、武家として初めて太政大臣にまで昇りつめました。当然ながら彼には、皇族や朝廷貴族を懐柔できるだけの莫大な経済力があったわけですが、その主な源泉は、全国に保有していた500を超える荘園であるとともに、清盛を頂点とする平氏一門が独占していた日宋貿易だったのです。

 文化の輸入を目的とする国家事業として日本が遣唐使を送った時代は、すでに9世紀末に終わっていました。907年に唐が滅ぶと、その後、五代十国とよばれる短期王朝と小国家が乱立する時代が約半世紀つづきます。

 中国全土が再び統一されたのは960年、趙匡胤(ちょう きょういん、927~976)によって宋朝(960~1279、南宋も含めて)が建てられてからです。これにより日本と中国との関係は、日宋間の交易という新たな段階へ入ったのです。

 宋すなわち当時の中国からは、陶磁器や絹織物のほか、宋銭が大量に輸入されました。

 そもそも「お金」を輸入するとは不思議な交易のようにも思われますが、この宋銭がその後長く日本の貨幣経済の基盤となったのです。ただし、これら日宋貿易は民間の商業活動であり、国家間の交流ではありませんでした。

 東洋精神のエッセンス

 もう一つの流れとして注目されるのは、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元などのように、日本から入宋(にっそう)して、当時、南宋で隆盛していた禅宗を学び、鎌倉仏教に新風を吹き込んだ人々がいたことです。

 「禅の修行をして悟りを得られるのは、10万人に1人ぐらいか」というような意味のことを、司馬遼太郎さんがどこかに書いていたと記憶しています。厳しい修行で自己を極限まで追い込む禅宗は、超人的な修行者でない限り、一般の衆生にとっては全く悟りを得られない困難な宗門ということでしょう。

 禅宗は、広く衆生を済度する宗教としてではなく、むしろ美術や建築の分野において、日本に絶大な影響を与えました。京都・龍安寺の石庭に代表されるような、静謐と枯淡の極美のような造形は、禅の思想なくしては日本に生まれ得なかったものです。

 思想と言いますと、後の日本にも巨大な影響を与えた中国哲学が、この時代に生まれました。

 宋学あるいは朱子学と呼ばれるこの学問体系は、北宋の程頤(ていい)から南宋の朱熹(しゅき)によって大成された新しい儒学であり、後の中国思想の主流となりました。中国ばかりでなく、江戸時代の徳川幕府において朱子学は正学として位置づけられ、武士から町人にまで広く奨励されたのです。

 中国らしさの熟成期

 「中国らしさ」とは曖昧な概念ですので、中国伝統文化と言い換えてもいいでしょう。

 その中国伝統文化が、宋という生真面目な時代において、大いに熟成されたと見るのは、あながち的外れではないように思います。

 唐は、国際色ゆたかで、とにかく華やかな時代でした。それに対して宋は、唐ほどの華やかさはないにしろ、北方から金(ツングース系女真族の建てた国)の圧力を受けるという恒常的な緊張感のなかで、ひたすら中国らしい文化を固めようと努めたのです。

 その方向を定めたのは、宋の初代皇帝・趙匡胤でした。

 彼は、五代十国時代の戦乱の教訓から、中国伝統文化に基づく文治政治を目指して改革に力を入れ、またその理想を実現させました。そのことが宋の軍事力を弱めたという批判はあるにしろ、乱世のなかで荒廃した道徳や社会秩序を見事に復興させた趙匡胤の功績は中国史のなかでも傑出しており、彼が名君として今日も称えられる理由はそこにあります。

 宋の北半分(北宋)が金によって征服されてから、宋王朝は南方の臨安(杭州)に拠点を移し、南宋(1127~1279)として存続しました。南宋は、逃亡王朝ではありましたが、江南の豊かな穀倉地帯を擁し、海上交易を盛んに行うことで繁栄したのです。

 忠と孝 岳飛の物語

 南宋には、中国伝統文化の徳目の一つである「忠」を絵に描いたような武将がいました。

 岳飛(がくひ)です。迫り来る金の大軍を打ち破って軍功を挙げた岳飛は、民間からも絶大な人気を集めていました。

 ところが、そのことを妬み、危険視した対金和平派の宰相・秦檜(しんかい)が、岳飛にあらぬ罪を着せて、これを謀殺してしまいます。

 岳飛が今日もなお民族の英雄であり、秦檜が国を売った軽蔑の対象として扱われる背景には、そのような史実があるからなのですが、神韻公演の演目「忠を尽くして国に報いる」では、この岳飛のもう一つの面である「孝」に焦点を当てて描いています。

 岳飛には、年老いた母がいました。岳飛は、母のそばで孝養を尽くしたいのですが、それでは国家の危機を前に武将としての働きができません。

 息子の苦悩を見た母は、息子が迷うことなく出陣できるように、心を痛めながらも、息子の背に「精忠報国」の四文字を刻み込みます。母に励まされた岳飛は勇ましく戦い、祖国に勝利をもたらします。

 宋という時代の意義

 中国文化史における宋という時代は、いわば回転する独楽の中心軸であったのかも知れません。

 華々しく動く独楽の周辺部が唐や清の時代であるとするならば、動きはさほど見られなくても、まっすぐに、地を深くうがつような顫動を続けていた時代。つまり中国伝統文化が一層香り高く醸造されるために、まさしく必要としたのが宋代だったように思うのです。

 これも名君として名高い南宋の第2代皇帝・孝宗は、悲運の武将・岳飛の名誉を回復するとともに、金との関係を修復して和平を結び、内政改革と経済の再建に努めて南宋の全盛期をもたらしました。

 その後、南宋はモンゴルの侵略を受けて1279年に終焉を迎えますが、そこには「他民族に統治されても滅びない中国伝統文化」が確実に形成されていました。

 そのような中国伝統文化の強靭さは、モンゴル族の元朝においても、また満州族の清朝においても継承されました。そればかりか、その後の中国史において、中国文化が支配民族を大いに教化するという逆転現象まで数多く起こしたのです。

 ただ一つ、極めて残念な例外は、20世紀の後半から現在まで続く中国共産党の統治だけが、中国史上の禁忌である文化破壊の大罪を犯した上、その厚顔無恥な振る舞いを今日に至るまで全く反省していない点です。

 神韻公演の各演目は、中国国内では見られなくなった正統な中国伝統文化のすばらしさを伝えるとともに、中国に今もいる、善良で勇気ある人々の物語も、全世界の観客に届けています。

 名もない中国の民衆の中に現代の岳飛がいることを、神韻公演を通じて、日本の皆様にもご覧いただけることでしょう。

 (牧)


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