三国志を解釈する(11)

【三国志を解釈する】(11)廃帝を叫ぶ董卓を盧植が論破

宦官に拉致された漢の少帝と陳留王を、官吏や将軍が見つけ出した後、西涼の刺史である董卓は、混乱に乗じて、皇帝を守るという名目で、大軍を率いて少帝のもとへ直行しました。

これは宮廷にある大臣や皇帝を直接拉致したに等しいのです。董卓はすぐに皇帝の退位を強制的に行いました。この出来事をきっかけに、当時、国内で絶大な人気を誇っていた偉大な儒学者である盧植(唐代に孔子廟に祀られている)は、董卓の廃帝に対する反論を出しました。

董卓の廃帝の陰謀

三国志演義』の第三回では、少帝と陳留王が董卓の「援護」を受けて宮中に戻った後、玉璽が失われ、董卓の反乱の意図が明らかになってきたと説明されています。

「董卓は、兵を城外に駐屯させたまま、毎日、武装した軍隊を連れて城内を歩き回り、人々を恐怖に陥れた。毎日、何の配慮もなく宮殿を出入りした。そして後方軍の中尉である鮑信は袁紹のところに来て、董卓には他の野望があるはずだから、すぐにでも排除すべきだと言い出した」

漢霊帝の時代に、宦官が優遇され、宦官の下に「西園八校尉」という直属の軍隊が設けられ、8つの部門に分かれていました。当時、袁紹、曹操、鲍信は校尉であり、皇帝を守ることは主な責任です。そのうち、袁紹は中央軍の尉官です。宦官が壊滅した後、八人の尉官は散り散りになり、その強さは名ばかりのものになったため、董卓軍に対抗する実力はなくなってしまいました。鲍信は兵を引き連れて去っていったのですが、袁紹と司徒である王允は、鲍信の忠告に従う勇気はありませんでした。そして少帝の周りにいた校尉は、軍勢が次第に薄くなり、力を失っていきました。

一方、董卓は、前将軍の何進の兄弟の兵力をすべて手に入れたので、謀臣である李儒と相談して、少帝を廃して陳留王を新帝に据えることを企みました。

李儒は、「宮廷に支配者がいない今、この機に行動しなければ、後に変化が生じるだろう。後日、温明園にすべての大臣を集めて、皇帝を廃位するように強行し、従わない者は斬首する。武力で強行するのに絶好の機会だ」李儒は董卓に、宴席を利用し武力で人々を服従させるように勧めました。

義理のある丁原 裏切りの意図を明かす

そこで翌日、董卓はすべての官僚や大臣を温明園の宴会に招待しました。董卓は軍事力を手にしていたので、来ない官僚や大臣は一人もいませんでした。物語の重要な展開はここから始まります。原文は以下の通りです。

役人が全員揃ってから、董卓はゆっくりと馬から降りて、刀を持ったまま園内に入っていった。何回か酒を飲んだ後、董卓は在席の人を止めて、「言いたいことがある。皆聞け」と、厳しい声で言った。

在席の人が耳を傾けてみると彼は

「天子は国民の主であり、権威がなければ王になる資格はない。今の皇帝は気が弱くて、頭も教養も陳留王には及ばないので、王位に就く人ではない。今の皇帝を廃して、陳留王を皇帝に立たせたい。意見のある人はいないか」と言い出した。

それを聞いた役人たちは、誰も声を上げようとしなかった。すると席を立った男の一人が机を押し出して、皆の前に立ち、「駄目だ!駄目だ! あなたは何者だ? とんでもないことを言うではないか。今の皇帝は亡き国王の長男であり、そもそも何ら悪いこともしていないのに、なぜ廃止の必要があるのか。あなたは簒奪者ではないのか?」と叫んだ。この男こそ荊州刺史の丁原だった。

董卓は怒りを滲ませ「私に従う者は生き、私に逆らう者は死ぬ!」と叫び、剣を抜き、丁原を殺そうとしました。

董卓と同じ官職を持つ丁原は、荊州刺史であり、董卓に対して反論を言い出し、皇帝の廃位に真っ向から反対し、董卓を簒奪者と位置づけました。

また、以下のような三つの基準を挙げています。第一に、少帝は亡き国王の長男であり、名分も正しく、理屈も通るということです。第二に、少帝は初めて即位した皇帝で、倫理に反する行動をしなかったことです。この二点は、少帝が棄却される正当な理由がなく、先祖代々の礼法や美徳に違反するものだと語っています。第三に、このような大それた出来事は、一般の人々が議論したり実行したりする資格は決してないということです。

つまり、廃帝を遂行する大臣は、適切な資格を持っていなければなりません。これはまさに、忠実な大臣の持つべき正しい見解です。外臣の丁原は、何進の命を受けて都に兵を連れて入ったのです。彼の考えは、代表的なもので、在席の官吏や将軍は皆そのような洞察力と見解を持っていたことを証明しています。

当時の王も大臣も正統な聖典や歴史書の教育を受けており、基本的な判断力は持っていて、国王も大臣も好き勝手にはできなかったはずです。廃帝とは、とんでもない理不尽なことで、秩序のある朝廷では極めて稀なことでした。しかし、皇帝が宦官によって拉致されてしまい、何進の愚かな決断により、董卓には洛陽に軍隊を連れて入る機会が与えられました。

著者は、王朝交代が差し迫っているという天象変化の観点から董卓の行為を描写しています。つまり、異常な天象変化が霊帝に警告を与えたのですが、霊帝は反省しなかったために、権力の喪失が避けられず、息子に王位を奪われ、玉璽も失われ、漢の滅亡は必然な結果となります。

悪人の行動によって天意が成し遂げられましたが、その後、董卓は天罰を受け、不運な死に方を遂げます。その頃、彼の運命を予言するような童謡が出ていました。これは、著者がやがて明らかにする「悪には悪の報いあり」という結末なのです。

「私に従う者は生き、私に従わない者は死ぬ!」のような裏切り者たちの傲慢な言動は、歴史的な主流ではなく、普通の出来事でもありません。特殊な状況のもとで、一時的に成功を収めたに過ぎないのです。混沌した時代に現れた悪人たちの行動で、中国文化を否定したり、中傷したりするのは間違いなのです。

丁原は外臣に過ぎず、彼の言葉にも明らかに足りないところがありました。そこで著者は、もう一人の人望がある尚書である盧植の言葉を借りて、整然とした議論を展開しました。この論考では、大臣による皇帝の退位の正否について、著者の賢明な意見が表されています。

尚書の盧植 論を展開する

丁原は、呂布を伴っていたため、李儒の説得を聞いた董卓に、すぐに殺されずに、宴席を後にしました。董卓は、兵を率いていた丁原が去ったのを見て、さらに節度がなくなり、普段から国事に携わっている大臣たちに「儂は皇帝を廃位にすると提案したが、お前たちは賛成なのか?」と迫りました。ここで盧植が前に出てきて、こんなことを言いました。

「明公(あなた)は間違っている。過去には、太甲(天乙の孫)は気が弱いため、伊尹(殷王朝の宰相)は彼を桐宮に幽閉したことがある。昌邑王(劉賀)は即位してわずか二十七日で三千以上の悪事を働いたため、霍光が太廟を参拝してから、昌邑王を廃位にしたこともある。

今の皇帝はまだ幼いが、賢明で慈悲深く、少しの悪事をしたこともない。外臣の刺史であるあなたは、国政に携わったこともなく、伊尹や霍光のような才能もないのに、無理をして皇位を廃止する理屈がどこにあるのか。

古き賢者、曰く、『伊尹のような志があれば可能であるが、なければ簒奪に等しい』のだ」

盧植は、大臣が王を退位させた歴史上最も有名な二つの事例を挙げ、廃帝の正当性、それを実行した大臣の資格、賢者の教えを明らかにしました。

盧植の言葉は、当時の偉大な学者や宮廷で最も知識のある大臣の意見を表しており、最も説得力があり、丁原の意見に対する強力な実例証拠を添えており、明白な理由と正当性を備えています。そのため、董卓は盧植の言葉を聞いた途端に激怒し、盧植を殺そうとしました。

では、盧植の言葉の真の意味は何なのでしょうか? 果たして盧植の命は大丈夫なのでしょうか?
 

(続く)

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。