THE EPOCH TIMES

文化と教育の古城 足利学校の伝統

2012年08月13日 07時00分
【大紀元日本8月13日】「日本最古の学校」「坂東の大学」と称される、足利学校のある栃木県足利市を訪れたのは8月1日。この日も猛暑だったが、クーラーの排気で熱せられた東京とは全く違う、澄んだ空気を感じられたのは嬉しかった。

 利根川を渡り、足尾の山が近くなったところで下車。駅を出てすぐの、渡良瀬川にかかる三連アーチの中橋が美しい。橋をわたる前に、流れる水の清らかさに引かれて、川原まで下りていった。川魚が群れる清流を見ているだけで、旅人の気軽さとは知りながら、この土地の住民になりたい気がした。

 足利学校の創建時期については、奈良時代から鎌倉時代まで諸説あるという。その軽重について論ずる知識を私は持たないが、正統な文化は、いくら時代を経ても必ず遺されていくという確信のような思いはある。

 「學校」という明快な扁額が掲げられた門は、寛文8年(1668)の創建。大きくはないが、やはり堂々たる存在感があった。

 その門の中へ、夏休みの子供たちが、まるでプール実習を楽しみにするかのように、嬉々として入っていく。門内からはすでに、「子曰く、巧言令色、鮮なきかな仁」と、『論語』を素読する子供たちの元気な声が聞こえていた。

 かつて足利学校で行われた教学は、易学、兵学、医学などの実学も含めて、中国学全般にわたっているが、その根本は儒学であるので、中心的なテキストはやはり孔子とその弟子たちの言行録である『論語』ということになる。

 恥ずかしながら、私が『論語』を読んだのは大学の漢文科に入ってからである。つまり、先ほど門をくぐっていった足利の子供たちより、はるかに遅い。そんな私が以下に述べるのは少々気がひけるが、日本の先人は、中国文化の受容について、実に合理的になし得たものだと、つくづく感心するのだ。

 中国の古典は、日本人にとって、言わば外国語の文献である。それを、上へ下へと飛びながら、とにかく日本語で読んでしまう漢文訓読というのは、考えてみればずいぶん無茶な読み方ではある。

 しかし漢文とその訓読が、日本の歴史のなかで、全ての事象を循環させる「血液」となった功績は否めない。やまと言葉は、和歌や日記などの文学創作には向いているが、公文書や正式な記録はやはり漢文でなければならなかった。

 しかも訓読そのものに、心地よいリズムと味わいがある。少なくとも、私たち日本人はそう思ってきた。つまり、外国語を日本語で読むことにより、それを自国の文化として再生してしまうという、世界でも類を見ない成功例を日本人はもっているのである。

 初学の子供たちにも、漢文訓読は必須科目であった。素読とは、師に続いて大きな声でテキストを読むことである。意味は理解しなくてもよい。それよりも、師を敬い、師の指導の通りに姿勢を正して発声するという、礼儀作法の修養に重点が置かれていた。

 忠孝も、仁義礼智信も、全ては「かたち」としての躾から体得されるという考えなのだろう。だとすれば、今日の教育が、近世以前の漢文教育に学ぶべきところも多いと思われる。

 国宝・姫路城が戦国時代の威容を残したまま現存しているのと同様の大切さで、足利学校は、我が国の文化と教育を守る孤高の城として今日も存在している。それが今回訪問の、私の喜びを含めた感想である。

 ふと思い出した。足利学校に隣接する鑁阿寺(ばんなじ)の近くを、写真を撮りながら歩いていた時。自転車で通りかかった中学生ぐらい男の子が、私に会釈しながら、「こんにちは」と夏風のような挨拶をしてくれた。東京では見かけない爽やかなふるまいに、私のほうが少し驚いて、返礼をしなかったことが今も悔やまれている。

 教育の効果は、美しい「かたち」になって表れる。足利という町には、それが確かにあった。

 
(牧)


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