THE EPOCH TIMES

千葉 佐倉 オランダ風車の里

2012年08月27日 07時00分
【大紀元日本8月27日】この日、立秋を過ぎたので暦の上では秋に違いないが、晴れ渡った空はまだ夏の明るさのままであった。歩くと汗が噴き出たが、それも水面をわたる風に吹かれて心地よい。

 東京からほど近い千葉県の北部に、印旛沼(いんばぬま)という沼がある。山上の湖水ではないので青く澄んだ水というわけではないが、広々とした水郷の風景は、都会とは別世界の輝きを放っていた。

 この地には、江戸期を通じて佐倉藩という中規模の藩が存在し、ひとまず幕末まで続いた。ひとまず、などとおかしな言い方をしなければならないのは、藩は続いたが藩主は目まぐるしく替わるという歴史をもっているためで、内実はなかなか大変だったらしい。

 その歴代藩主は、老中や大老など、いずれも幕閣として政治の中心にいた大物ばかりであった。おそらく、それがかえって政治という海の上で、風向きの変化を受けやすかったのであろう。

 戦国時代は遠く過ぎ去り、太平の世となった当時。各大名にとって合戦以上の辛酸を嘗めなければならなかったのは、幕府による改易、つまり取り潰しの恐怖であった。そこで、これをいかに回避するかということが、外様だけでなく、親藩・譜代を含めた江戸期の全ての大名にとって最も切実な課題になった。

 幕府がつける改易の理由の一つに、藩内の不穏というのがある。領民を圧迫しすぎて、かえって百姓一揆が頻発するようでは、実にまずいのだ。

 佐倉藩第2代藩主・堀田正信のころ、後にいう佐倉惣五郎事件(1653年)が起きている。

 佐倉の名主であった彼の本名は、木内惣五郎という。惣五郎は、年々厳しくなる年貢の取立てをゆるめてほしいと藩主や幕府老中に申し入れるが聞き入れられなかった。そこで惣五郎は、第4代将軍・徳川家綱が上野寛永寺に参詣する際、命がけの直訴を敢行した。

 死は覚悟の上だった。藩主の苛政は改められたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)にされる。その惣五郎の霊が祟ったかと、人々が噂したのも無理はない。惣五郎の死からほどなくして堀田家は改易されたからだ。佐倉藩には別姓の大名が入封した。

 佐倉惣五郎は、その死後、義民として人々の尊敬を集め、今日もなお佐倉の人々の心に生きている。

 出羽山形藩からの国替えで、佐倉藩に再び堀田姓の大名が当てられたのは、先の改易から90年近く経った1746年であった。

 さらに時代は下って、いよいよ幕末に近くなった頃、堀田正睦(ほったまさよし)という藩主が出る。攘夷鎖国に反対の立場をとる、明快な開国派であった正睦は、「蘭癖」と呼ばれるほどの蘭学好きで、実際、藩内においても蘭学を奨励した。

 この方面における正睦の大きな功績は、長崎で学んだ蘭法医・佐藤泰然を江戸から佐倉に招いたことであろう。佐倉に移った泰然は、藩医への招聘を固辞して、私塾・佐倉順天堂を開設する。この蘭医塾が、今日の順天堂大学のルーツに当たるのは周知の通りである。

 以来、佐倉順天堂は、大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ、蘭学・蘭医塾の東の雄としてその名を世に知られることになる。副作用を避けるため麻酔薬は使わなかったらしいが、開腹しての外科手術など、相当高度な医療も行われたという。

 さて当時、西洋の学問といえば、多くはオランダ経由であったので蘭学といった。それを洋学と呼ぶようになるのは、英・独の学問が主流になった幕末から明治にかけてである。 

 思い出したが、緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉も、はじめはオランダ語を修得し、原書を読んで塾頭を務められるほどのレベルに達した。ところが後に、見物に行った横浜などで英語の必要性を痛感した諭吉は、独学で英語の猛勉強を始めることになる。

 しかし今日の私たちが、かつて蘭学から恩恵を受けた歴史を思い出し、オランダという柔らかな水音が聞こえてきそうな国に、素朴な友好の気持ちをもつことは、わるくない。

 佐倉の市民も、そう思ったのだろう。そのシンボルとして平成6年に作られたオランダ風車が、印旛沼のほとりの「佐倉ふるさと広場」に立っている。

 季節の花に囲まれて、ゆっくりと回る風車。本当に1時間見ていても飽きなかった。

 
(牧)


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