THE EPOCH TIMES

【伝統を受け継ぐ】高山茶筌「竹茗堂」

2012年10月31日 07時00分
【大紀元日本10月31日】茶筌(ちゃせん)の里、高山は奈良県生駒市の北端にある。富雄川沿いに田畑や竹林が続くのどかな田園地帯である。一方、高山には奈良先端科学技術大学院大学などを擁する学研都市という側面もある。古くから竹の豊富な地域だったらしく、茶筌だけでなく、茶杓などの竹を使った茶道具、編み針などが生産されている。

 富雄川沿いの小高い丘に「高山竹林園」が建つ。地場産業のPRと振興のために1995年に創設された施設で、傾斜地を活かした水の流れる庭、茶室、資料館などがあり、広く一般に開放されている。

 黄金色に色づいた田圃が美しい10月5日、6日の両日
「高山お茶会と竹あかりの夕べ」で茶杓づくりのワークシ​ョップ(撮影・Klaus Rinke)

、恒例の「高山お茶会と竹あかりの夕べ」と銘うったイベントが開かれた。資料館では茶筌造りの実演、親と子どものためのお茶会、茶杓や竹箸造りのワークショップ、それに戸外では山の緑に囲まれて、野点の茶席など盛だくさんの楽しみが用意されていて、家族連れがさわやかな秋の1日を楽しんでいた。夕やみ迫る頃には、ろうそくや行燈に明かりがともされ、幻想的な世界に一変した。

 高山の茶筌造りの始まりは、室町時代中期の茶の湯の起源にまで遡る。鷹山村の豪族、鷹山宋砌(そうせつ)が、茶の湯の始祖である村田珠光から抹茶を湯に交ぜる道具を考案するように頼まれ、試行錯誤の末、完成させたのが茶筌の始まりと言われている。茶筌造りは鷹山一族の技として継承され、豊臣秀吉の時代に京都の茶会で宋砌自作の茶筌が天皇の目に留まり「高穂」と銘を賜ったのを機に、鷹山氏は「高山」と姓を改めたという。

 江戸時代に入り、高山氏は京極家に仕官することになり、一族揃って宮津に移住する。その時、元家臣の16人に茶筌製作、販売の認可を与え一子相伝(いっしそうでん)で製法を守り伝えていくよう言い渡したのであった。これは昭和の時代まで固く守られ、製法と品質を守り続けたが、戦後、継承者を確保するために製法は公開されたという。

 16人の継承者の一人、久保家の24代目に当たる

、「竹茗堂」当主で伝統工芸士の久保左文(本名・昌城)さんをご自宅に訪ねて、竹の話、茶筌造りの心など興味深い話を聞いた。

 久保さんが本格的に茶筌造りを始めたのは18歳の頃だった。アマチュア無線仲間と交信をしたり、日本橋に通ってラジオを組み立てたりすることが好きで、電気・電子関係の大学に進みたい気持ちが強かった。「父はもちろん大反対でした。母親は淋しそうな様子でしたね」「受験がうまく行かなかったこともあり、家業を継ぐことにしましたが、20歳ぐらいまではまだモヤモヤしていました」と茶筌造りに専念するまでの気持ちを振り返った。

 茶筌の材料となる竹は、白竹(淡竹)、黒竹、長年民家などの骨組みとして使われ燻された煤竹、青竹などが各茶道流派の好み、茶会の趣旨などに即して用いられる。「竹は厳しい環境で育ったものが繊維が細くて、密度が高くていいのです」。水分、養分が足りすぎると、木のように固くなってしまう。雪が多いと竹が曲げられて、その形を覚えてしまう。海が近いと潮風が吹く、竹はそれを嫌う。「その点、奈良の山地で育った竹は茶筌造りに適しているのです」と久保さんは説明してくれた。

 茶筌造りは全て手作業で行われる。上部の表皮を除き
茶筌づくり実演:被肌と肉を分け、肉を除く(撮影・Klaus Rinke)

、包丁と呼ばれる小刀で切り口を16等分する。それを更に太い・細いを交互に10分割して、太い方を外に細い方を内側に傾けて糸で固定して穂を作る。美しく、使いやすくて長もちする茶筌が出来上がるまでには、多くの微妙な作業工程がある。

 「伝統の技だけではだめなんです。使う人のことを思いやって作らないと使いやすい茶筌にはなりません」「全部手加減ですから、作り手によって仕上がりは違ってきます。見ればだれが作ったものか分かりますよ」と久保さんは言う。

 「現在は長男の左元(さゆき)が後を継いでくれています」「今後、私は愛する高山と生駒のために、少し頑張りたいと思っています。昔の良さを残している高山ですが、道路や下水などのインフラも昔のままで整備が遅れていますしね」と生駒商工会議所、会頭というもう一つの顔を見せた久保さんだった。

茶筌の製造工程(撮影・Klaus Rinke)

いろいろな茶筌(撮影・Klaus Rinke)

(温)


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