歴史ものがたり

障害を持つ孝行息子が苦難を越え行方不明の父親と再会

の時代、河南省の商丘に榛という障害を持った子供がいました。 彼が7歳の時、故郷で疫病が発生し、母と兄弟は疫病で亡くなり、父も彼を捨てました。幼く障害のあった彼は苦労を重ねて成長し、大人になってから父親を探すために長江の北から南まで旅をしました。 15年後、放浪していた彼は、ついに夢に教え導かれ、父親との再会を果たしました。

清の時代、商丘に趙江という人がいた。 元来、頑固な性格だったが、慈悲心がないわけではなかった。 彼は勉強はしていたものの、官途を求めていたわけでもなく、貧しい人や物乞いを見かけると、必ず一枚のお金を与え、けちることもなく100人の物乞いを見かけると100枚のお金を与え、 塩や米などの生活用品も自分で用意していた。 

趙江は、慎重で几帳面だったので、たくさんのお金を稼いだ。 妻は、威厳と美徳を兼ね備え2人の息子を産んだ。また趙江には2人の妾がおり、人の妾はそれぞれ1人の息子を産んだ。 一家は近所から羨ましがられ、幸せで調和のとれた生活を送っていた。

その後、妻は3人目の息子を出産し、その日の夜、部屋には不思議な香りが漂っていた。 しかし、生まれた赤ちゃんは、片足が短く、足の不自由な赤ちゃんだった。しかも生後1年の時に片目を失ってしまった。 

趙江はその赤ん坊を嫌い、草むらの中に放り込もうとしたが、妻は絶対に承知しなかった。だから、子供に「榛」(草がごちゃごちゃしているという意味)と名付けた。

榛が7歳のとき、村は干ばつに見舞われ、食糧の収穫ができず、人々は食べ物を求めて散り散りになり、村の10軒のうち1軒近くが残った。 裕福だった趙江の家は、家族全員が飢えを免れた。 しかし、夏になると疫病が発生し、趙江の妻や妾、息子たちは皆、病死してしまった。 生き残ったのは、趙江と障害を持つ息子の榛だけだった。 

趙江は悲しみに打ちひしがれ、天に向かって叫んだ。彼は、自分の人生で大きな善行をしたわけでもないが、大きな悪も犯していなかった。なぜ妻や妾、息子たちが抹殺されたのかと問いかけた。 趙江は寂しさのあまり、故郷を離れることにした。 離れる前、榛は彼の服を引っ張って離さなかったが。 趙江はまだ埋葬されていない妻と妾、そして障害のある息子を残して去っていった。

父が去った後、榛は布で土を運び母と兄弟を埋葬し、母の実家に向かった。 一ヶ月後、祖父母は榛を連れて商丘に戻ってきた。 彼らは窓から、中のベッドが格子状の塚になっているのを見た。 榛は泣きながら、自分の母と兄がそこに埋葬されていることを伝えた。 彼らは、榛を不憫に思い、埋葬の世話をし、家事を管理した。 家を出ていた使用人や女中たちも、徐々に戻ってきた。

彼の祖父たちは榛に先生を雇い、13歳になると学校に入学させたが。 その後、榛は家業を営むために学業を断念した。その後、榛の働きで、財産は以前の10倍になった。 榛は結婚をし、妻は息子を出産した。

それから1年ほど経った頃、彼は妻に「父を探しに行く」「父を見つけるまで家には帰らない」と告げ、 家をでた。妻も祖父母たちも、彼を思いとどまらせることはできなかった。 家族は白い服を着て、見送りをした。

榛は南部は山や川が多いので、父が僧侶になるかもしれないと思い、南方へ向い、小屋や尼僧、僧侶が住んでいるところをくまなく探したが、何も見つからなかった。

3年間探し、とうとうお金がなくなった榛は、街に出て人々に父の消息を尋ねた。 何年もの旅の末、食べ物を乞い、ボロボロの服を着て、壊れたお寺で夜を過ごした。 その姿を見た人々は、彼が乞食のふりをして人からお金を騙し取っているのだと思った。

ある日の夕方、榛は贛江に来て、川を渡ろうと思いました。船頭は彼を物乞いだと思い、船に乗せようとしなかった。 しかしその船は川の中ほどまで来たところで、大きな波でひっくり返り、船に乗っていた者は全員死亡してしまった。 榛は「天が死なせないので、必ず父に会える」とため息をついた。

さらに3年後、西に向かって、四川、貴州から雲南へと旅をしました。 昔から「蜀の道の難しさは、空に上ることよりも難しい」と言われ、全部山道で、登るのは難しいので、そんな道を歩くのは、天国に行くよりも難しいとされていた。しかし、雲南や滇地は、蜀の道よりもさらに難しい。 榛は城門をくぐり、城外の田園地帯にやってきた。

この地域は銀や宝石が豊富で、榛はそれらのものを街で売り旅費を稼ぎ、彼は以前より落ちぶれなくなった。 漢中を出てから、ある日の事、暗闇と霧、そして滑りやすい道のせいで、榛は崖から落ちてしまった。 幸いなことに、彼は神の加護を受け、木こりの助けを借りて、出口を見つけ、太原に向かった。

その年は大雪が降り、榛は飢えと寒さで地面に倒れこんでしまった。 朦朧とした意識の中、榛は王冠をかぶり、朱色の衣をまとった男が、馬車と従者を従えているのを見た。 その男は榛を指差して、「これは私の孫だ」と言った。 すると従者はあわてて榛を助けた。 男は「お父さんは遠くないところにいる。ここにはいない」と榛を安心させ、丸薬を取り出し、それを飲み込むように言った。 ほどなくして、榛が目を覚ました。 起き上がってみると、もう寒くないし、お腹も空いていないし、何日も食べなくても大丈夫なくらい元気になっていた。

その後、榛は燕の都を通り、居庸関から出て、東の遼陽へ向かった。 周辺は肥沃で、人口も多く、農産物も豊富だった。 ここでは、河南省の人たちがたくさん商売しており、彼らは、榛が父を探しにここに来たことを知ると、「ここには故郷の人は少ないが、趙という名字の人はいない。ほかのところへ探しに行ったほうがいい」と言った。

ある日、榛は白い髭を生やしたまだ70歳にもならない老人に出会った。 老人は榛のもとにやってきて、さりげなく小銭を投げた。 彼が質問をしようとしたとき、その老人は立ち去ってしまった。 榛は彼の後を追い、2キロメートルくらい歩いた後、老人が柵のある木戸の中に入っていくのを見た。

しばらくするとまた老人が出てきて、榛を見て、「さっき道で見かけたな。なぜ今ごろ、私の家を通りかかるのだ」と言った。 榛は「あなたの訛りを聞いて、聞きたいことがあるんです。 ここには河南の趙という名字の人がいないでしょうか」

驚いた老人は、榛が足が悪いのを見て、「お前は榛なのか?」と言いながら、榛を中に招き入れた。 

榛は息が切れそうに泣き叫び、 趙江も「死んだと思っていた。これはすべて私のせいだ」と泣いた。 

榛は数々の試練を経てようやく再会を果たした。趙江の顔には笑顔が満ち溢れていた。

榛は、父親を連れて家に帰った。 すると家から五キロほど離れたところで、家族が道で待っているのを見て驚いた。彼は自分たちが故郷に帰ってくることをどうやって知ったのかと聞いた。

家族は、「10日前、村の多くの人がある日、。趙江の孝行息子が父を家に迎えるという同じ夢を見た。 また前夜、お墓の楊の木の上に千羽の鳥が集まった。 だから、趙の父子が到着していることを知った」といった。

村人たちは趙家族に感銘を受け、何百キロも離れたところから、一家の訪問を祝うためにやってきたのだ。 彼らは、「榛は、片目が見えず、片足が不自由で、皮膚が暗くて痩せている。 しかし、彼は大きな責任を背負い、自分を修めることができた。 なんて素晴らしい人なんだろう」と褒め称えた。
 

(出所《小豆棚》卷一)
 

(翻訳・李明月)