中国伝統文化百景(18)

修煉して得道し昇天した黄帝

古書に記されている黄帝の人間像は多元的である。人文の始祖、聖徳の君主などのほか、求道者、修煉者、得道者ないし天帝という超人的な顔もある。これについて、道教の著書に記述がある。

『列仙伝』黄帝では、こう記されている。

黄帝はもろもろの鬼神をたくみに叱咤激励し、伺候させてはこれらを使役した、という神格をもつ存在であった。

彼は、幼少よりよく物を言い、聡明にして未来を予知し、物事の法則に通じていた。みずから雲師となり、龍の姿をしていた。雲隠れをする日を自分で選んで決め、臣下たちに別れを告げた。いよいよ死去すると、連れ戻って橋山に葬った。すると山が崩れ、棺は空で遺骸はなく、ただ剣と舃(くつ)だけが遺されていた。

仙書にはこう述べられている。

黄帝は首山(山西省浦阪県にある)の銅を採って、荊山(河南省閿郷県にある)の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、一匹の龍が髯(あごひげ)を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天した。臣下たちはことごとく龍の髯をつかまえ、帝の弓にぶら下がって、帝について昇天しようとしたところ、龍の髯が抜け、弓も落ちてしまったので、臣下たちはついてゆくことができず、帝を仰いで泣き叫んだ。そこで後世その場所を鼎湖といい、その弓を烏号(嗚呼と号泣したで名づけられたといわれる)と名付けた。

別の所伝では、黄帝が龍に乗って昇天したとき、友人の無為子および臣下で従って昇天したものは七十二人。従わなかった他の小臣は落ちた龍の髯と帝の弓とを抱いて号泣したという。

『神仙伝』序に、軒轅は鼎湖より龍をあやつって昇天したとの記述があり、『抱朴子』内篇巻十三・極言にもこう述べている。黄帝は生まれた時から物が言えたほどの天才だったが、それでも各処の山に登って、広成子・大隗・玄女・素女らに学んで、はじめて昇天できた。

『抱朴子』巻十二では「聖人」を世間の聖人と道を得た超世間の聖人と二分され、周公や孔子など世間でいう聖人は世を治める聖人であって道を得た聖人ではない。これに対し、黄帝や老子が道を得た聖人であるとされている。

唐僖宗広明二年(881)、王瓘は旧来の諸々の記述を整理し、『広黄帝本行記』を著し、黄帝が修煉して得道したことを系統的にまとめた。

古書に記載されている黄帝は、伏羲などの半神状態と違って、基本的には人間である。そのため、人間のレベルを超越しようとすれば、修煉して得道するより他の道はない。したがって、中国文化の礎を多元的に築き上げた黄帝は、人間の生息に必要なものの他、道を求め修煉するという超人間的な文化をも率先して開創したのである。換言すれば、道を求め修錬するという概念は黄帝から創出され、かつ彼がそれを率先して実践したのである。 

参考文献:『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』、中国古典文学大系8、平凡社、昭和50年12月。

(文・孫樹林)