共産主義の知られざる真実

大半の財を共産党に寄付し、裏切られて憤死した富豪は誰?

2017年06月02日 11時23分

 さらに150石の食料と銀貨2.3万枚の軍資金を提供し、興県農民銀行を創設して中国共産党の財政問題を解消した。統計によると、日中戦争時に、牛友蘭はほぼ全財産を投げうって、合計で銀貨35000枚を支出し、2万キロもの食糧や、大量の綿花や布、石鹸、タオル等の各種生活必需品を提供した。

 1942年5月、牛は晋西北の名士を引き連れて延安を参観し、毛沢東とも対面した。牛は故郷に帰ると、延安の「良い経験、良い作風」を盛んに宣伝した。しばらくして、牛友蘭は晋西北臨時参議会議員となった。

「極悪地主」共産党の裏切り

1939年、延安で、抗日思想を説く大学を作り演説する
毛沢東(Hulton Archive/Getty Images)
 

 1940年、牛友蘭は中国共産党の政策にこたえ、借金帳消し運動に乗って小作人の借金を自ら踏み倒した。1942年からは、村はずれの廃屋を住まいにしていた。

 歴史の記録によると、牛友蘭は中国共産党の革命事業に賛同し、私財を捧げつづけたにも係わらず、名士であったがために、残酷極まりない中国共産党の土地改革運動の対象者になった。

 悲劇は1947年の秋から始まった。9月18日に行われた農民大会で、共産党の支局書記・軍区政治委員李井泉は農民に牛友蘭を罵倒するよう呼びかけた。「牛家はかつて興県の全住民を圧迫し、虐げてきた。無慈悲に、徹底的に地主を批判しよう。皆怖がるな。共産党は後押ししよう!」。

 1947年9月26日、牛友蘭を批判する「闘牛大会」が開かれた。牛友蘭の息子で中国共産党晋地域行政公署副主任、党組書記の牛蔭冠も、停職処分を受けて中国共産党辺区党学校で調査を受けていた。彼も親の批判キャンペーンに参加させられ、実父と決別することを要求された。

「闘牛大会」には付近の村落の住民も参加した。牛友蘭は手錠と足枷をつけられ、ほかの地主や自営農、「悪い幹部」とともに、主席台の前にひざまずいた。あらかじめ決められた者が「極悪地主の牛友蘭を打倒せよ!」と叫び、批判会が始まった。

 すると、中国共産党が事前に訓練を施した「積極分子」たちは次々に登壇し、牛友蘭の「罪悪」を暴いた。闘争が最高潮に達したとき、数人の「積極分子」が牛友蘭を地面に押し倒し、針金でもって彼の鼻を貫いた。そして牛の息子を呼び出し、「来い、牛蔭冠。老牛を引っ張って町中を練り歩け」と大声で叫んだ。牛友蘭は驚きと怒りのあまり、息子を見て頭を振った。すると針金で繋がれた鼻の軟骨が引き裂かれ、地面は血で真っ赤になった。

 屈辱に耐えきれず、牛友蘭は家に帰ると絶食して抗議した。家財を投げ打ち、困難に陥った共産党軍を助けたにもかかわらず、闘争の対象とされたのだ。まして自分の息子に引っ張られて町を歩かされる屈辱と絶望感は、決して耐えられるものではなかった。

中国内戦下の共産党軍。1948年、人民解放軍により包囲された街(パブリックドメイン)

 闘争大会の三日後、1947年9月29日に牛友蘭はこの世を去った。享年63。毛沢東と面会し、称賛された地方名士が、共産党の手によって屈辱を受け、耐えきれずにこの世を去った。

 「山西歴代記事本末」の「旧解放区土地改革運動」編には当時の悲惨な状況が記載されている。「1948年6月22日の統計によると、興県の8つの地域合計290個の村で、殺された人数は1050人。内訳として、地主380人、裕福な農民382人、中流農民345人、貧農小作農40人。また、自殺者は863人。内訳として、地主255人、裕福な農民285人、中流農民310人、貧農小作農11人。そのほかに、批判され家から追い出されて餓死凍死した者63人」

 一行政区でさえこの惨状だ。中国共産党の「解放区」全体で考えると、絶望に打ちひしがれて亡くなった者の数は、どれほどに上るのだろうか。

(翻訳・文亮)

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