大紀元時報
文化大革命の嵐

知られざる迫害 文化大革命に翻弄された原爆開発者らの運命

2017年10月09日 15時00分
中国原爆の父・鄧稼先と妻。(ネット写真)
中国原爆の父・鄧稼先と妻。(ネット写真)

 中国では、鄧稼先氏と言えば、すぐに原爆と連想される。西南連合大学を卒業した彼は、1948年にアメリカで物理博士号を取得し、帰国後の1956年に共産党に加入した。核工業部第九研究院で院長として、原子爆弾、水素爆弾の研究開発を任され、原爆理論を完成した上、核実験の爆発模擬実験を主導した。その能力の高さから、しばしば「原爆の父」である米物理学者ロバート・オッペンハイマーと同様に語られた。生前には計32回の核実験に参与し、15回も新疆ロプノールでの実験を仕切った。しかし、適切な防護措置を受けられず、長期にわたり被曝していたため、鄧氏は1986年、直腸がんを患い命を失った。

 鄧氏とその家族も文化大革命の闘争から逃れることはできなかった。1971年、文革の嵐は研究院にも襲い掛かり、鄧氏らも闘争を受ける身となった。「英語を話せる者はアメリカスパイ、ロシア語を話せる者はソ連スパイ」など言われのない罪で彼は批判された。鄧氏の妻で北京医学院教授の許鹿希氏は、「黒幇分子(悪徳分子」として大勢の前で批判を受け、液体のりを全身に塗り付けられ、精神状態が崩壊寸前だった。帰ってこない妻を探しに行き、この惨状を目の当たりにした鄧氏は打ちひしがれたという。

 鄧氏を述べる上で、彼の弟子の中で最も優秀な趙楚氏にも触れたい。核開発にある重要な函数方程式を解けたのも趙楚氏だったという。彼は原爆製造の核心的な計算を誰でも簡単に調べられるよう、何ページもの資料を作り込んでおいた。資料の一部は、西北部の荒漠にある核実験基地の密室に厳重に保管されていた。

 文化大革命勃発後の1969年、趙楚氏は批判の対象となり、あの密室に監禁された。三日間米一粒、水一滴も口にすることを許されなかった彼は、心血を注いで作成した資料の一部を飲み込み、万年筆のぺン先で動脈を切り自ら命を絶った。

 愛弟子の訃報を聞き、悲しみに暮れた鄧氏は、手元にある資料を趙楚氏のお墓の前で燃やした。この日から、原爆製造のカギとなる最も重要な部分を失うことになった。

 1986年、鄧氏は臨終前、共産党幹部に例の資料の作成を懇願された。

「目を閉じれば、趙楚の血が映るんだ。あるまじき勢力の手に、壊滅的な力を託すとは、人類に対して罪に等しい。いまさら悟っても時はすでに遅し」鄧氏はただ後悔の念が募るばかりだった。

参考記事:文化大革命に翻弄された一家の物語

(つづく)

                                        (大紀元ウェブ編集部)

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